生沼義朗『水は襤褸に』
(ながらみ書房、2002)
以前、高柳蕗子の「アマノジャク男爵が避暑惑星に飼う美しい手をした生き物」という歌を紹介したときに、私は〈美しい〉といった言葉は、あまり安直に詩歌に使わないほうがいいのではないか、ということを書いた(個人の意見ということにしておこう)。この「男爵」の歌は、なにか腹に据えかねて言うのですとでもいうように、一首の重心が「美しい」にある。ひとまず美しいという市井の価値観に落とし込んでおくが、しかしここにはもっともっとグロテスクななにかが忍び込んでいる。それに気づいてください。と、語り手の静かな叫びが聞こえてきそうだ。だからおもしろい。
今日の一首にいう「美し」にも、語り手が腹に据えかねたなにかがある。市井では、ふつうは美しいなどとは言わないはずのものを「美し」と言い残して歌はプツリと終わる。じゃあ、救急車、ゴミ収集車、街宣車の、なにが美しいのか、次の授業で聞きますから、考えておいてください、そんな感じだ。読者のほうも、考えなくては、とつい付き合わされてしまう。
それで考えてみたわけだが、この「美し」には、二段構えの構造がある。救急車、ゴミ収集車、街宣車を美しと思う感情は、ポルシェや祇園祭の山鉾を美しというときのそれとは決定的にちがっている。救急車やゴミ収集車には、担わされた役割がある。公共的な役割に特化したものを「美しい」というのは市井でも見聞きする用例だ。しかし、街宣車が持ち出されるとき、その論理はゆらぎはじめる。街宣車は公共的な存在なのか? しかしあれが、いつもなにがしかの政治的社会的主張を宣伝していることを考えれば、あれを走らせている人にとってはたぶん公共的な目的があるということなのかもしれない。だから「走り去るもの」として、この三つの車は絶妙なバランス感覚で選ばれている。多くの人に認められるかそうでないかにかかわらず、それぞれがそれぞれの信じる公共性を求めて活動する。その活動が「車」というある種の目に見える成果物を産み落とす。この「美し」は、だから「けなげさ」と言い換えてみてもいい。
こんなふうに、この歌集の語り手には、道を走っているちょっとしたものを見ただけで、その光景の裏側まで見通してしまうような、まなざしの明瞭さを持っている。
いっせいに量販店のモニターに映るはマルチナ・ヒンギスの顔
〈回春〉の字面みていし目の端にぬれぬれとして赤い掃除機
精神科病棟端のシャッターが開いて真白きライトバン出づ
ほとばしる水のちからに耐えかねてシャワーのノズルはのたうちまわる
*
センサーというものかなしみずからの意に関せずに扉の開く
センサーの悲しみをうたう一首があったのであわせて引いてみるが、いずれもまるでピントの合いすぎるカメラでうつした光景のように、細部の意外なものが浮き上がってくる。そのセンサーが悲しいのは、表層ばかりに機械的に反応して扉を開くような動作を演じてしまう点だ。これらの歌の語り手も、動くものを機械的に描写するような手つきで、いっけん表層的なスケッチのごとき歌を詠む。しかしそのセンサーの感度がよすぎるがために、頭ではその光景の奥にあるものを見通してしまう。だから、病院から出てくる車両にも、電気屋のテレビに映るヒンギスの顔にも、そうなるにいたる事情や因果が、いっけんシンプルな歌の向こう側にはち切れそうなほどに詰まっている。すでに歌がすこしずつこちら側に傾き、いつなだれ込んで私たちを流し去ってもおかしくない。そんな怖さがこれらの歌に感じられないだろうか。