青松輝『4』
(ナナロク社、2023)
掲示板騒動のあった七月の都知事選のさなかにアテンション・エコノミーという言葉を知って、膝を打つ思いだった。人々の注目や関心が、まるで通貨のようにやりとりされる、ということのようだけれど、たしかにさいきん、ネット上の記事を読むのに広告が浮き上がってきて、「あと〇秒間広告を見て、報酬を受け取る」さもなくば課金せよというような指示が出てくるようになった。むかしは広告というのはもっとエレガントなふりをしているものだったはずなのだが、今ではすぐに課金とか報酬とか言いだして、まるで人ごみの中で札束を数えるような品のない存在になった。
だからこそ、今日の一首にいわれているその気持はとてもよくわかる気がしてしまう。スマホの画面とはちがって、われわれの住む世界そのものにはまだ広告が侵食してきていない。スマホの画面から顔を上げればもう、目の前に広がっているはずの〈広告のない世界〉。それはもうさぞかしすがすがしいにちがいない……、が、それだけを考えていると、今日の一首は読みまちがうだろう。なにしろこの歌は世界を「アダルトサイト」だと言ってのけているのだ。このくだらない世界、わけのわからない派手な広告がべたべたについていてもよさそうなのに、よくよく見てみたらまだぜんぜん出広されてないじゃないすか。そんな感じだろうか。
サブリミナル効果みたいに何回も言ってあげる望みどおりの言葉を
一光年遠くで一年前のきみは5秒後に広告をスキップ
Life is a game. って本当かなあ 世界中たくさんの囚人
サードパーソン的な視点でものを見る 僕の体がのっている椅子
歌集『4』から、掲出歌の付近に登場する歌たちを引いた。四首目に「サードパーソン的な視点」というキーワードの出てくるのが非常に象徴的なのだが、どの歌も「世界」そのものが次第に語り手から遠ざかり、パソコンやスマホの画面の向こう側のような、語り手のほうから直接働きかけることのできない場所に後退してしまっているような印象を受けないだろうか。引用の二首目は、なんと一光年も離れたところに、「きみ」のいる世界があって、そこで「きみ」が広告をスキップしている様子をただ漫然と眺めているようだ。一首目は、外側からその世界の中を覗き見ている「僕」に対し、誰か――世界の有り様を操作できてしまう権限を持った誰か――が話しかけたセリフが歌になっているのだと私は読んだ。世界の外側に立っている彼らは、いまや世界の中に広告を流すことのできる立場に立っている。
世界の外側に立った「僕」が、ぼんやりと見つめている〈世界〉。離れた場所にありながら、その世界には「きみ」や「僕」自身までもが暮らしているらしい。彼はそんな世界のことをアダルトサイトだと言っている。まだ広告がひとつも貼られていない、これからいかようにも好きな言葉を貼りつけていくことができる。そんな世界に「萌える」のだとすれば、それは私にはわかるような気がした。