黒瀬珂瀾『黒耀宮』
(ながらみ書房、2002)
いきなりわき道にそれて恐縮ながら、掲出歌を見ると、平井弘のかの有名な、
男の子なるやさしさは紛れなくかくしてごらんぼくが殺してあげる
「前線」(国文社、1976)
とどうしても読み比べてみたくなる。平井のこの歌、読み方は色々あるかもしれないが、私が考えるのは、「男の子」とそれよりはずっと年上であるらしい青年の「ぼく」とのふたりきりの情景だ。男の子が虫かなにかを捕まえた。青年の「ぼく」に「かしてごらんぼくが殺してあげる」と言われると、殺そうなんて思っていなかった男の子のほうは、驚いたにちがいない。虫を見れば殺そうと思う、それが大人の男になるということなのか。
平井のこの歌を読むとき、私の場合は男の子のほうに親近感を抱く。そうなる理由のひとつは、青年の「ぼく」の言う「殺してあげる」の突拍子のなさだろう。読者も男の子とともに「殺してあげる」に驚き、一緒に青年の得意げな顔を見上げる感じがする。そうやってこの歌は、読者ひとりひとりが大人になっても捨てきれずにいる「やさしさ」をあぶりだそうとする。
楡のかげから見てゐてあげる軽やかに才能がすり減つてゆくのを
黒瀬珂瀾による今日の一首にも、「男の子」と「ぼく」がいる。平井の「男の子」より、黒瀬の「男の子」の方が年長だろうか。『黒耀宮』には、少年と呼ばれる「男の子」の歌がおびただしく収められ、歌集全体に同性愛的な雰囲気が漂う。この男の子は性的に成熟し始めた年ごろの「少年」であろう。
その腕が我が水平線たりし日の陽射しを残す汝の首筋
控へ目な鼻をひねればとび起くる少年にふと淡き乳輪
性欲が憎いと囁ける君が桜浴びれば目眩む吾ぞ
釦散つて打ち重なりぬ少年の独占欲ほど紅き唇
一冊の歌集の中で、その「少年」は主体(平井の歌でいうところの「ぼく」の側)からの視線を何度も浴びることになる。そして、首筋、乳輪、唇といった身体の局所に向けられる青年のまなざしには、堂々と見ているというよりも、盗み見るような雰囲気がある。掲出歌の場合、いや、歌集全体がそうなのだが、読者はおそらく「ぼく」、つまり年長の青年(*)のほうに立って、青年とともにその少年を見ることになる。かっこよくいえば、その青年と読者に共犯関係がある。
読者と青年は盗み見るということを共犯できるのだが、見られている少年は、青年のまなざしに気付くことはできても、私たち読者の存在にはたぶん気づけない。舞台と客席の間にマジックミラーが立ててあるような、本というのは、そういう特殊な舞台なのだ。――などと感心しているうち、とうとう掲出歌で青年は「見てゐてあげる」と言い始める。大きく枝を広げてそびえる草原の楡の木をえらんで、そこに隠れたふりをしながら、「見てゐてあげる」。のちに続く「才能がすり減つてゆくのを」というのは、挑発のようでもあり、別れの言葉でもあるだろう。
才能がすり減るとは、それまで青年が作り上げてきた耽美的な世界に、少年の側が年を重ねるにつけ付き合いきれなくなり、脱け出そうとする。あるいは、身体的にもすっかり大人になって青年のお眼鏡にかなわなくなるということ。青年の側の独善的な物言いだが、このとき初めて、私たち読者が少年の側に立たされる。すっかり大人になってしまったつまらない少年、それは結局、私たちのことだ。
(*)ここでは掲出歌(もしくは『黒耀宮』)に登場する少年を愛する年長の主人公を「青年」と呼ぶことにする。『黒耀宮』には「冬の厨に女を知らぬ青年が慈姑一盛りを静物となす」、「浴室に青年ひとりさむざむとアンスリウムの蘂立たしめて」といった「青年」が出てくるので、ややこしいのだが、しかし私はこの「青年」も、主人公の自称と解釈しても差し支えないと思う。