初谷むい『わたしの嫌いな桃源郷』
(書肆侃侃房、2022)
短歌の中に詠まれている主人公は、たとえ作者が現実の経験を反映させて詠んでいるにしても、歌という三十一音の檻のなかに閉じ込められていて、作者がみているのとおなじ現実にふれあうことはできない。ホームビデオの中に映っている家族は、あくまでその画面の中に生きていて、画面から外に出てくることができないのと同じことだ。三十一音の定型とか、テレビ画面の中に彼らはえいえんに閉じ込められている。しかし、歌集をたくさん読んでいると感じることだが、短歌という檻に閉じ込められた主人公や登場人物たちは、そんなこと無理だとはわかっていながらも、現実世界に降り立つことを願望し、せめて現実に生きているようなフリをしている。だから私も、彼らを行き止まりであるとわかっている避難路へ案内するように、歌の世界と現実の世界に架かかる不完全な渡り廊下として歌の読みを書いている、そんな気がしてきた。
さて、今日の一首は、別に短歌にまつわるそういうメタ的な認識を語っているというわけではない。現実にはすでに離れていってしまった恋人(あなた)が、主人公の頭の中にだけは今も棲んでいる。はじめ私はこの歌をそういう意味でとっていた。ところが、繰り返し読むうちに、ここで主人公が語りかける「あなた」とは、主人公自身なのではないかという気がしはじめたのだった。主人公が、自分の頭の中に飼っている自分自身とは、理想の自分でもあるし、ふだんはさらけ出すことのできないほんとうの自分でもある。もちろん、その「自分」は、主人公にとっては最後の逃げ場のような「自分」なのだから、現実の世界の空気になど触れさせるわけにはいかない。なのに、その「自分」は、ときに檻から出して、と助けを求めるように、主人公を呼ぶ。
この歌は極端な字余りで、こうなると音数を数えるにもあまり意味はなさそうだけれど、あえてやれば「あたまのなかの/あなたは空気に/ふれたことが/なくひらがなで/ひらがなでぼくを呼ぶ」、つまり七八六七十とするのが一般的だろうか。最初から字余りなのだけれど、理屈がちで窮屈な上の句に比べて、下の句は「(外の世界に触れていないから)ひらがなでぼくを呼ぶ」と理屈が空洞化するので、字数以上に引き延ばされているような印象を受ける。「ひらがなでぼくを呼ぶ」という現実世界の理屈から解放されたこののびやかさが気持ちいい。現実世界を知らないあたまのなかの「わたし」は、なにも怖いものなんてなさそうに、主人公をいつまでも呼んでいる。
花に指差し入れている いつになればあなたをひかりに還せるだろう
にせものだってあなたは言うがこの影はあなたのかたちのとおりに動く
イマジナリーねこちゃんいつもありがとう涙を舐めて小さく鳴いて
猫がたくさんな枕で今日も寝る おやすみのあとにおはようが来る
この世のすべてをめしあがれ/だいすきだよ/大好きだよ/大すき 仮想現実の恋人たち
あたまのなかの自分を「ひかりに還」す、それは理想の自分を現実化し、あたまの中の自分に依存する必要がなくなる日ということあだろうか。それはほとんど実現不可能にも思えるけれど、ほら、ほんとうのわたしと、あたまのなかのわたしはこんなに似ているじゃないか、と希望を持とうとするのが二首目。現実の自分の方を「影」だといっているのが、すこしせつない。ふたりの自分はある種の同盟関係にあって、悲しい日にはあたまの中から「イマジナリーねこちゃん」を貸してくれたりもする。こんなやさしいあたまの中の自分にだけは、せめて好きな人と一緒にこの世界を味わってほしい。五首目にはそんな絶望の交じった祈りが宿っている。