川野里子『五月の王』
(雁書館、1990)
考えてみればちょっと変った構成の一首である。主人公は自分の家に遊びにきた「友」から離婚の意志を打ち明けられる。その後その友を見送って戻ってきたとき、庭先からさっきまで自分たちがいた室内をふとながめた。友のお土産なのだろうか、卓上の桃が見えたというのだが、「わが宅の桃」といわれると、妙に生々しい。窓ガラス越しに見たというのに、なんだか桃の表面のうぶ毛や、あまやかな匂いまで、読者にも伝わってきそうな気がする。
歌の前半では、友から離婚の意志を告げられたという事実を語るのみで、主人公は驚いたのか、なんだかそうなるような気がしていた、とあんがい冷静に受け止めたのか、この一首からはわからない。それも、「離婚の決意固めし友」と、友に関する説明として軽く済ませようとしているわけだけれど、「離婚」というのは一首の中に投げ込まれると強烈な単語で、それだけで、打ち明けられた際の主人公はどんなリアクションをしたのだろうと、読者に想像させるようなところがあると思う。想像の中で、読者が主人公と友との会話を窓ごしに眺めていた。すると、数時間後には主人公が同じ場所にきて同じように部屋の中を眺める。もちろん、もうそのときには部屋に主人公も「友」もいない。ただ、何かを象徴するように桃がひとつ置かれているのみだ。「変った構成の一首」だというのは、そんなふうに、主人公が枠の外に出てきて、ひととき読者と同じ視点に立って自分の生活を眺めるような構造があるからだ。
掲出歌とは別の「われを待つ雪」という一連には次のような歌もある。
白地図の一枚のやうな空部屋に揺れて明るき楡の影来ぬ
四トン車一台に送る生活のなべてよ春の風に乗る種子
「春の風に乗る種子」に象徴されるように、引越しの顚末を詠んでいるのだろう。いっさいの家財道具をトラックに積んで、がらんどうになった部屋を、一首目ではやはり庭先から窓越しに眺めているのだと思う。この主人公がみずからの生活を眺めようとするとき、そこに自身の姿を見とめることはできない。あたりまえのことではあるけれど、こちらの歌では家財道具も引き上げてしまっているのだから、空虚さはより強調される。
今回は引かないが、この歌集では、鳥海山、三郎岳、月山、安達太良山、等々と、いくつも山の名を挙げながら自然の雄大さをうたう一方、それとくらべるとまるでミニチュアのような、狭い室内にトラック一台分の家財で完結する主人公の生活が語られる。そして歌集を読みながらもう一つ気にかかるのは、わが子が走り寄ってきたり、またその子を抱きとめる瞬間が、すこしずつシチュエーションを変えながらまるでタイムループのようにくりかえし歌われることだ。
遊ぶ子の群かけぬけてわれに来るこの偶然のやうな一人を抱けり
追ひ風のはげしき坂に胸鳴れば走り来る子を眼を閉ぢて待つ
われまでの距離を泳ぐ子歓声と悲鳴わかたぬ声とどくなり
こども抱く腕のふしぎな屈折を玻璃ごしにながく魚らは見をり
狭い世界で同じことを繰り返すように生きる人間の営みを、やはり玻璃(ガラス)ごしに魚たちが見ている。「ふしぎな屈折」は、水の中から見ているからなのだろうけれど、ここでいう「魚ら」とは、ひとつにはやはりいつもゆがんだまなざしでほんとうの家族の姿を見通すことのできない、物見遊山の私たち読者のことでもあるのかもしれない。
