兵頭なぎさ『この先 海』
(ながらみ書房、1996)
自己決定という前提があるのなら、自分はどうしたいのかということを考え、あるいはわざわざ考えるまでもなく、結果としてあるべきすがたの自分がかたちづくられていくことになる。でも世の中そう単純ではないということは、だれしもが知っているはずだ。細胞が分化するようにあるかたちができ上る瞬間の「わたし」を、顕微鏡でのぞきながら、しかもスローモーションにして見せているというのがこの歌なのだろう。自己の意志などというものは成立しないのだとハナからあきらめて、それで初めて「わたし」を俯瞰することができる。そして「わたしが揺れはじめ」るという、一個の生命が人間へとかわっていくようなその神秘的な瞬間が、実は「廊下に立つてゐる空気」という目には見えない黒幕の仕業だったとわかったとしたならば……。
受精卵が時間をかけて胎児のかたちに分化していくとき、そこには胎児の自己決定などというものはまるでなくて、おそらくは細胞の中にプログラムされた設計図のとおりに自動的にすすんでいくことになる。この歌の場合は、受精卵とか胎児よりもずっと大人に近づいた「わたし」の「揺れ」が詠まれているのだろう。後々までわたしたちの命運を支配するその設計図。それを書いた、まるで空気のような黒幕の存在をこの歌はにらんでいるように思える。
私たちの命運を握る、そういう目には見えない黒幕のようなものが、不気味に廊下に立って、こちらを見ている。そんな表現でだれしも思い浮かべるのが、渡辺白泉の
戦争が廊下の奥に立つてゐた
という俳句(無季)なのだが、「廊下」「に立つてゐた」という言い回しは掲出歌もうっすらと影響を受けたのかもしれない。すると、その黒幕というのは、個人の自己決定を阻害するような社会の制度や情勢のようなもののことだという可能性も出てくる。そんな読みの可能性も指摘しておこう。——そうなると歌としての魅力がじゃっかん削がれるようにも思えて、やはり社会などというものができるよりもずっとずっと古い太古の昔から人間を支配した設計図の存在という読みを私は推したいのだが——
そしてまたひとりになつてベゴニアの花を食べるやうになつたあの夏
砕け散るうつくしい水この水をわたしのからだはたたへてゐるの
すつぽりと青いネットにくるまれてビルの住人改造されてゐる
初恋はことばさへなくみづいろのもの増えてゆく少女の部屋に
まぶしくてあゆみをかへす木漏れ陽にいつしか浮遊するわが身体
『この先 海』の歌が、渡辺白泉にどこか似ているように見える理由のひとつが、これらにみえるようななかば散文的なスタイルだ。兵頭の歌にある「ゐる」「なつた」というような言い回し。俳句や短歌の定型というの押し入れ中に、からだの三分の二くらいは埋めながらも、残りの三分の一くらいをぬっと外に出してくる、そんな印象があると思う。掲出歌にいう「空気」が廊下に立っていたというとき、その家屋を外から見るとこんなふうだったかも、と思うのが引用の三首目。マンションやビルの改装工事をするときにすっぽりとつつむネットやシートの類だが、ビルを改装すると知らされていたはずなのに、どういうわけか住人が改造されてしまうのだという。これは見て見ぬふりをするうちに進んでしまう、渡辺白泉のいう「戦争」の感覚に近いのかもしれない。ほかの引用歌は、外側からの「改造」ではなく自己の内部に仕込まれていた設計図に支配される「揺れ」。「ひとりになつてベゴニアの花を食べる」は、まるで昆虫のふしぎな本能を語っているかのようだ。