吉岡太朗『ひだりききの機械』
(短歌研究社、2014)
たまご焼きの専門店か、洋菓子屋かわからないが、その日に使う分の卵をいっきに割って溶く、そういう仕事がたぶんあるのだろう、テレビで見たことがあるようにも思う。鶏の卵というのは本来ヒナを孵らせるためにあるのだが、ここに詠まれているのは、せっかく母鶏たちが産んだその卵を、卵を産まない人間の男がかたっぱしから破壊していく光景である。その虐殺の埋め合わせとでもいうように卵を産めない青年は「いとはれやかに」脱糞をする。溶いた二百個分の卵はたぶん、彼より上役の料理人や菓子職人に渡されて、たまご焼きなりプリンなりにされるはずなのだが、第三者的なまなざしのこの歌の語り手は、わざわざ脱糞の方に着目している。(まあ、たまご焼きもプリンも、人に食べられ、消化されれば同じ結末になる)
『ひだりききの機械』は、吉岡太朗の第一歌集。これよりも五年後に出された『世界樹の素描』(書肆侃侃房、2019)のほうには次のような歌が二首続けて載っている。
なぜこんな大虐殺のじゃこを見てわしのこころは動かへんのか
だれひとり殺さずだれにも殺されず生き抜くことができますように
「その青が」『世界樹の素描』
じゃこはイワシの稚魚。二百個の卵を割った掲出歌の青年のはれやかさにくらべて、こちらの主体は「わしのこころは動かへんのか」と虐殺行為そのものよりも自分自身の心のありように絶望している。続く二首目では、「だれひとり殺さず」だけではなく「だれにも殺されず」生きていく事を願望しているのだが、これは実は大切なポイントだ。〈だれひとり殺さず〉〈だれにも殺されず〉であれば、ゼロ対ゼロの引き分け。でも、実際の彼はあまりにも多く〈殺し〉すぎている。なにしろひとつ前の歌でじゃこの大虐殺をまのあたりにし、たぶんそれを食べたばかりなのである。主体の命はひとつしかないのだから、どう考えても引き分けに持ち込むことはできない。
ごみ箱に天使がまるごと捨ててありはねとからだを分別している
夕立がきたので君をひっこめる 割らないように二回に分けて
そんなんわかってますって 卵に一個ずつ別のからがあることぐらい
この三首はふたたび『ひだりききの機械』から。三首目は、歌集の中では掲出歌とは離れたところに載っているのだが、こうして引いてみると、なにやらつながりがありそうに思えてくる。大量の卵を割る人が、それぞれがかけがえのないひとつの生命だったということくらいわかっています、そう言っているのが三首目。おっしゃるとおり、わかってはいるのだろうけれど、なんだか軽々しい口ぶりだ。こういう人が天使を捨てるときも、ルール通りに分解はしておきながら、そのへんのゴミ箱に気軽に捨てたりすることになるのだろう。ところが、二首目のように自分にとって大切な「君」という存在になると「割らない」ための配慮が見える。
大切にされる「君」と、そのほかの、天使や卵、じゃことのちがいはどこにあるのだろう。それは結局よくわからない。いずれにせよ、じゃこの大虐殺を見て、どうしてこころが動かないのかと葛藤をする羽目になるのは、それほどに軽んじられる生命というものがこの世にあるらしいということに気づくからだ。自分が大切にする「君」、あるいは自分自身には、ほんとうに殻を打ち砕かずに保護し続けるだけの価値があるのか。その問いの恐ろしさが掲出歌や「じゃこ」の二首の裏側に貼りついているように思うのだった。