ふるえやまぬ樹々のあわいを駆けすぎし あれはまなうらのなみだなるべし

三枝浩樹『朝の歌』
(雁工房、1975)

第一歌集序盤におかれた「五月の惨歌」という一連のなかに、次のような歌が続けて載っている。

透明な朝の光だ 傷ついた窓をあけいまは眼をみひらかん
ふるえやまぬ樹々のあわいを駆けすぎし あれはまなうらのなみだなるべし

「透明な朝の光」のすがすがしさを強調する一首目が、単なる実景というよりもむしろ心象風景をうたっているというのはあきらかだろう。思いどおりにできなかった日々を抜け出して、ついにその暗い廊下の端にある窓を勢いよく開け放つようなイメージだ。

そして、今朝の一首に選んだ「ふるえやまぬ」の歌。出だしに、ふるえやまぬ樹々のあわいを駆けすぎし、といわれたとき、思いうかぶのは、まるでおとぎ話の主人公が迷い込むような暗く深い森である。周囲の樹々が、主人公に呪いの言葉をかけるかのように、たえず揺れている。この森をなんとか抜け出そうとする心象風景が、こちらにもやはり描かれているように思える。

ところがこの歌、下の句に至ると一首のイメージをがらりと反転させる。「あれはまなうらのなみだなるべし」。当初の段階では、森の中を駆け抜けていったのは、そこに迷い込んだ主人公自身であろうと考えるだろう。ところが下の句からちがう読みの可能性が膨らみはじめる。走り抜けていったのは「なみだ」だったのである。すると、前半の「ふるえやまぬ樹々」とは、感情が高ぶりふるえている睫毛だということにならないか。その睫毛の森を抜け出してきた自分自身の涙を、主人公は視認した。「これは」ではなく、「あれは」という遠くを指さすようないいまわしをするのはなぜなのだろう。主人公と涙とのあいだに物理的あるいは心理的なちょっとした距離があるように思える。頬の上を伝ったというより、うつむいたときに涙が足もとに落ちたということなのかもしれない。同時に、主人公にとっていかにも意外な「涙」が不覚にもこぼれてしまったという、心理的な距離のニュアンスも読みとれる。

『朝の歌』から、涙に関する歌をもう一首

〈内〉から〈外〉へ翔びたつ鳩を購うと涙の銀貨あふるるものを

これも自己の内面から外面へと抜け出していく涙を感じ取る歌である。「〈内〉から〈外〉へ翔びたつ鳩を購うと」という清新なイメージを提示しておいて、あとから「涙」を出し反転させるところも似ている。その「鳩」を買うと、財布から金をだすまでもなく、「銀貨」が目からあふれてしまった。その鳩をわざわざお金を出して買おうとしたのは、暗い自己の内面から抜け出す術を手に入れたかったからだろう。

暗転のまま閉じられし劇場がみゆるを われの内ふかき野に
ゆきてかえらぬものへ劇しく向かいゆく暗きカヌーを漕ぐ、なにゆえに

ドア押してゆくあてどはなき僕ら夜冷えの深さ言いたるのみに
冬ぞらへ窓あけはなつ母の日課 わがあけはなつべき窓あらず

内から外へ抜け出す自己の姿は、この歌集の中にくりかえしうたわれている。当初「あれはまなうらのなみだなるべし」あるいは「涙の銀貨あふるる」と、抜け出そうとする自己を涙に喩えることで、傍観と驚きを交えた表現—つまり、気づいたらいつのまにか抜け出ていた—にしあげていた。それはやがて、ここに引いたように「なにゆえに」と問いながら内部で暗闘し、どうにか今を脱出しようと試みる自己の描写へと移っていく。そして、「ドア押して」「冬ぞらへ」の二首は、『朝の歌』の最後のページにあるもの。外へ出ようにもどこへ行くのかという目的もなく、窓を開けるのも母に頼らなければならない自分に気づく。唐突な挫折によって歌集は幕を閉じる。

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