岡野大嗣『サイレンと犀』
(書肆侃侃房、2014)
風が室内に入ってきて、カーテンも建物の内側へ押される。それならばあたりまえのことなのだけれど、逆にカーテンは外へと丸く膨らんでゆく。実はこれ自体がちょっと魔法がかかった現象であるゆえに、校舎、つまり学校が教室のなかに4年3組の子供たちをまるごと妊娠しているという奇想にもわずかな説得力が生じているように思う。実際にはもちろん、子供たちにはそれぞれに父親と母親がいて、みな別の母胎から生まれたはずだ。
この歌は『サイレンと犀』のなかの「みんな雑巾」という一連の中にあるのだが、父や母というものはここにどのように詠まれているか。
くもりのちあめのちくもりくちべにをひく母さんの手つきはきらい
ともだちはみんな雑巾ぼくだけが父の肌着で窓を拭いてる
ハミングのあれはユーミン お米研ぐ母に西日は深くとどいて
ひとりだけ光って見えるワイシャツの父を吐き出す夏の改札
二首目の雑巾、この手の思い出はときたま聞くことがあるけれど、たいていは倹約家の母に自分だけが父の古い下着をもたされたので他の子たちにからかわれた、というようなエピソードである。しかし歌にされると、自分だけが父の肌着を持たされた、特別に選ばれた幸福な子供だといっているようにも見えてくる。三首目では、ハミングしながら米を研ぐ母親を主人公はおだやかな気持で眺める。なのに、一首目になると「くちべにをひく」手つきが嫌いだという。化粧というものが、母親が家庭の外の、子供には理解できない社会という巨大なブラックボックスにつながっていることを暗示する行為だからだろうか。子供時代の日々というのは、当人たちにとってみれば「くもりのちあめのちくもり」というようにどんよりとしたまま代り映えせず続いていく途方もなく長い時間で、〈社会〉のように外へ逃げ出していく場を持つことさえも難しい。四首目ではこの社会から帰還する父親が主人公には輝いて見えている。
けっきょくのところ、ここには「ぼく」をとりまく父や母、そして学校の情景が、なかば回想のようなノスタルジーを込めながら一連として構成されている。私はどうしても〈社会〉というブラックボックスをここに想定しながら読みたくなるのだが、そこからは父親も吐き出され、いっぽうで家庭にいることの多い母親は、ときに方向感をうしなったようにブラックボックスのほうへ逆流してしまいそうになる。カーテンに象徴された学校という母胎も、やはり子供にとっての社会なのかもしれない。父と母がいて子供が生まれ、家庭が営まれるというのは実は一面的なとらえ方で、ほんとうはそれぞれが、それぞれの母胎からたまたまひとつの場所に吐き出されて、そこで家族という体裁を組んで過ごしているだけのことなのではないか。そんなことを考えた。