牛隆佑『鳥の跡、洞の音』
(私家版、2023)
「檸檬」かあ……、書けないなあ……。わざわざ漢字で書こうと思ったこともないし。そういえば、以前取り上げた相原かろの『浜竹』に、
平仮名が車のナンバープレートにとんと一文字「ぬ」が良し今日は
という歌があったのだが、これも同じように「ひとつだけおさえればOK」系の主張をしている。なぜ「ぬ」や「檸檬」でなければならぬのか、「め」や「葡萄」ではだめなのか、すくなくとも他人を納得させるような明確な根拠はない。「今日は」「この世のことは」と後付けをして終わるところも似ているし、この語り手のふてぶてしくも謎めいた印象も、重なるように思う。
相原の歌について、先に書いておくと、自分の家の車のナンバーが日によって変わるわけではないのだから、この歌は、道で「ぬ」ナンバーの車を見かけて、今日という日に何だかすごくあっている気がする、それでとってもごきげんになるという歌だろう。天気とか、体調とか、曜日、きのうどんなことがあったか、とかによって、どのひらがながふさわしいかは変わるにちがいない。そうですか、としか言いようがない歌だけれど、そんなささいなことで目の前の人が幸福でいてくれるならこちらもうれしい。
それで、牛隆佑の今日の一首だが、相原の歌が今日一日の自分自身のささやかな幸福を語るのに対し、こちらは「この世のこと」と大ぶろしきを広げ、相手を巻き込んでいるだけやっかいな感じがする。この人はごきげんに、「檸檬」が書ければ万事解決ですとまず言い、聞いている相手に対しても、書けないのならば今からでも練習すればいいのですよ、と言うのではないか。そんなわけはないとわかりながら、言われた相手は、そして読者は、「檸檬」の字を練習するのだろうか。この人が書いてくれた見本を書き写すように、「檸檬」と書いてみる。だまされたふりをして書いてみれば、その数秒間のあいだだけは、ひょっとすると幸福でいられるのかもしれない。
『鳥の跡、洞の音』からもう一首。
地球というのはでっかい葡萄です あめひかりあめゆっくりころす
これもたぶん、同じ人が言っているのだろう。この世は檸檬、地球は葡萄。「あめひかりあめゆっくりころす」はにわかにはわからないけれど、檸檬のときは、とりあえず話を合わせておけばごきげんでいてくれたのに、葡萄になると急変して「ころす」とかの話が始まる。理屈はもうまったくわからない。口調は怒っているふうでもないのに「ころす」という。怖い。信じたふりをしておそるおそる「檸檬」を書いたあの数秒のこちらの気分まで実は見透かされていたのではないか。でもこういうこと、たしかに経験ありますね。
