『彗星紀』前川佐重郎
麦は、おおむね秋の終わり頃に種を撒き、冬を越して初夏に実りを迎える植物である。この歌では、「百頭の馬の蹄の鳴る」轟きが、青々と芽吹いた「麦立つ冬野」を展いていくという。むろん「百頭の馬の蹄」は駆けているものであろう。とすると、この蹄の轟きは冬の到来を告げる音でもあろうか。浪漫性のある詩的なそのイメージは、馬の轟きとともに、麦の緑色をも鮮やかに目に浮かばせながら、屹立する冬の心を、「麦立つ冬野」へと誘うのである。湿り気のある情緒や情感ではなく、シャープな比喩によって言葉を際立たせる力は、現代詩人でもある証といえようか。同じ「冬の蹄」の一連には「吊るさるる鮟鱇の目の見開けばすなはち蒼き冬の夕暮」という歌もある。ここでは「鮟鱇の目」のぎろりとした感触に、短歌的定形句である「秋の夕暮」を飛び越えて、あえて不協和音も辞さない「冬の夕暮」の美をつくり出しているようだ。一九九七年刊行の第一歌集。