髙橋みずほ『凸』
(沖積舎、1994)
さむざむとしたベランダで、洗濯ばさみが自分よりずっと身体の大きな干し竿をまるで懸命に慰めるように抱きかかえている。自分はなんでこんなことをしているんだろうと洗濯ばさみが思うとき、自分たちはここに忘れ去られてしまったのだということに思い至る。もしかしてこれが、その洗濯ばさみが感情を持ち始めた最初の瞬間だったのではあるまいか。この洗濯ばさみや干し竿の持ち主は、ベランダに彼らを打ち捨てたまま引越してしまったのかもしれない。「忘れられた」という事実が、さみしいというはじめての感情を洗濯ばさみに芽生えさせた。
むしろ「思い始める」の主語は人間の作中主体で、この歌は「干し竿を洗濯ばさみは握り締め」+「忘れられたこと思い始める」という二物衝突なのだと考える方もあるかもしれないが、私としては、文字通りに洗濯ばさみが一首の前後半を貫く主語であると考えてみたい。簡単にいえば、それは感情を持った生身の人間がこの歌集に登場するのはふさわしくないと私には思えるから。次のような歌も見てみたい。
熟れ柿は空をかかえる枝に群れ先に溜まった重さに落ちる
まわりから氷となってゆく水は泡の空間のこして凍る
人間が群れてどよめき列をなし中を通さぬ圧力となる
消えそうに音が電車を連れてゆく見えないレールの上をたどって
「吶 Ⅳ」『凸』
暗闇のなかの音とレールと電車の関係。柿が枝先から落ちる、あるいは泡が凍る瞬間。人間のそばで起きていながら、忙しい私たちが決して目を向けることのないそのいくつもの瞬間がここには描きとめられている。三首目にうたわれているようにその世界にもたしかに人間はいるようだが、それはひどく遠い景色として詠まれている。このまなざしはいったい誰のものなのだろう。私にはどうもこれらが、生身の人間の目にうつる情景のようには思えないのだった。それでもあえて人間を持ち出すならたとえば息を引き取った人間の魂が、街のなかをただよいながら、徐々に天へと昇っていく。生前の感情をほとんど失ったまま、世界に別れを告げるようにさまざまな場面を見つめている。そういった感触が歌集全編つらぬくことになる。
あるいは——、街中に設置された防犯カメラが、ふいにかすかな感情を持ち始め、おのおのが気に入った瞬間の映像を胸に留める。そんなごく短い映像の数々を集めたのがこの『凸』という歌集だった。それはあくまで読解のための仮の設定だけれど、こんなふうに味わってみるのも楽しい。
右ひだり振子時計の繰り返し時を探して音をためてる
石鹸の泡となりたるふくらみを排水口は流してしまう
「流してしまう」という微量の感情や、「ためてる」というまるで甘えん坊のように砕けたイ抜き言葉。このあたりに生まれたての、まだ幼いが、飛び切り素直な感情のかけらを見ることができはしないか。小さな感情を搭載したカメラはやがて、とあるマンションのベランダに放置された干し竿と洗濯ばさみの寄り添い抱きしめあうその情景に、ほかのだれにも見つけることのできなかったできたての小さな〈感情〉を見出すことになる。感情を持ち始めたモノは、やはりほかのモノたちに宿る感情を見逃さないはずだと思う。
*引用は『セレクション歌人18 髙橋みずほ集』(邑書林、2006)によった。