僕だって何かを殺すかもしれずニュースに映る花束を消す

田村穂隆『うみとファルセット』
(現代短歌社、2022)

「ニュースに映る花束を消す」とは、わかりやすく言えば、花束を映しているニュース番組を見て、そのテレビの電源を切った、ということだろう。それでもこの言い方だとPhotoshopなどをつかってその現場から超現実的に花束だけを消し去る、そんなイメージが読者の脳裏にいちどは浮かぶことになる。わざわざこのような言い回しをしているのは、やはり本心では花束をこそ消したかったという気持があったからなのではないか。「僕だって何かを殺すかもしれず」というとおり、無批判に自分を正義の側に立たせることのできない主人公は、とうぜん容易には花束を献じる側に立つことができない。

……そのように考えれば、掲出歌の「花束を消す」という感情は、一応は容易に理解できてしまうだろう。しかし、歌集を読み進めるにしたがって、ここに頻出する花のモチーフには、主人公のもっと複雑な感情が担わされていることに気づく。

花柄の服を着てはじめてわかる光を吸って吐いて吸うこと
生産性という言葉がわたしの胸に咲くタンポポをちぎっていった
人間の肉を溶かして薔薇にする魔法があった それを使った
胸張れば胸の奥地の森林が剥がれる気持ち たんぽぽを踏む

一首目の「花柄の服」とは、世間並みのジェンダーへの意識を身に着けてしまえば、この世は泳ぎやすくなるということでもあろうか。一方、三首目はまるで、「何かを殺」し捕らえられた犯人の供述のようだ。花柄の服を着せるどころか、悪びれもせずにその人の存在をすっかり「薔薇」にしてしまうことの恐ろしさ。掲出歌にいう「花束を消す」、テレビの電源を切るということは、そうした価値観が押し付けられることへの無言の抵抗でもあっただろう。おそらく、主人公は、服の花柄や、薔薇、花屋で買う花束よりも、野に自然と咲いているタンポポをこそ護りたい。しかし、それは思いのほか難しいことだ。

これほどに傷つき、同時に自分がだれかを傷つけるのではないかと恐れ続けもする主人公をまのあたりにしても、一介の読者にすぎないわたしたちはなんら救いの手を差し伸べることはできないのだが、幸いなことに、読み進めるにしたがって、序盤であれほど心の傷をさらしていた主人公が、花というモチーフの象徴性をいつしか逆回転させるように、徐々に満たされつつある世界へと向かっていくことになる。

どの風を選んでもいいタンポポは海では海に愛されるから
花は無いけれど一輪挿しがほしい 心のための体ですから
松ぼっぼっぼっぼっぼっぼっぼっくりを拾う あなたに投げつけるため

一首目のタンポポは、つまりタンポポの綿毛のことだろう。種が実を結ぶ土地がなくとも、愛される人の場所へ飛んでいく。三首目では、もっとはっきりと、もはや上機嫌に、そして遠慮することもなく「あなた」にむかってそれを投げつけている。

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