『蓬』松平修文
長い一首である。散文的な文体は歌の定形からはみ出しているようで、しかしなんとなくリズムの中に収まってもいる。文体もさることながら、一首の中身も独特である。すなわち、雪の朝、「旅行者のわたくし」を「湖底寺院の鐘」が起こしたのだという。「湖底」という言葉がなければ何の不思議もない歌だが、この「湖底」の一語が一首の景色を非現実へとガラリと変える。現実的な想像をすれば、作者は湖のほとりの宿に泊まっていたのかもしれず、また降りしきる「雪」が時間空間の感覚を狂わせたのかもしれない。だがそう思いながらも、読者は「旅行者のわたくし」の方が幻覚であって「湖底寺院の鐘」の方が実体であるような、この世とあの世とが逆転する錯覚の眩暈に襲われるのである。幻想空間に引き入れる手並みは鮮やかという他はないだろう。眩暈といえば、この作者の初期の一首に「水につばき椿にみづのうすあかり死にたくあらばかかるゆふぐれ(『水村』)」というのがあり、わたしはすでにここで、水と椿が反転する「うすあかり」の世界に眩暈を感じたのであった。二〇〇七年刊行の第四歌集。