米川千嘉子『夏空の櫂』
(砂子屋書房、1988)
まだ若い、なにごとにも疑心暗鬼になりやすい主人公の心の目で、家族や身のまわりの人々を見つめつづけた歌集という印象が『夏空の櫂』にはある。心の奥の奥まで見透かしてしまう強いまなざし。
電子音にひと日まみれて来し君が言葉なくながきくちづけをくれぬ
わがために感情費やしたくなき夜が電算室の君に降りゐむ
くちなはのやうに草生を泳ぐわれを若き父いかなる心にて見し
やがて夫となる恋人を詠む一・二首目。「言葉なくながきくちづけ」にはおもわずキャーと叫んでしまいたくなるが、一方では彼は自分(主人公)のことなど忘れて電算室にこもる研究に没頭したいのだという、それは考えすぎではともいいたくなる二首目のような歌もある。あるいは主人公とその父との微妙な関係を詠んだ三首目。「くちなは」は蛇のことだが、自分のことをまるで人間とは別種のいきものを見るような目でとらえていただろうとまで娘の側が踏み込めるのはやはりするどい。「若き父」というとまるで過去のことのようだが、娘のことが根本的には理解できないまま、ずっと寡黙に見つめ続けてきた父の後ろ姿が浮かび上がってくるようでもある。これが母となると、
わが理解超えゐる娘といふ母と夏の終りの花火見てゐる
とより直截的に理解の不可能を娘に告げる。
ややもすれば強すぎる感受性で家族や恋人を見つめ、立ち上がってくる世界。そんな数々の歌の隙間を埋めるように繰り返し登場するのが「少女」たちである。主人公は高校の教員をしているようで、学校を舞台に詠む連作もこの歌集にはいくつか収録されているが、ときにその「少女」が主人公になにかを伝えに来る。たとえば掲出歌においてはそれが「心とふおそろしきもの」のありよう。その「心」がしまわれた少女の胸は「ひるがおいろ」と表現されている。昼顔という可憐だが、ほとんど見向きもされずに咲く花にたとえられた少女は、父や母から心の内側までしっくりとは理解されないまま大人になった主人公の分身でもあるのだろう。
癒えたくて秋の校庭見おろせば少女らのほそきひかりの行進
映像の体操少女の宙返り小暗き部屋に見て飽かざりき
いちめんに光のにほう道に来てもわれの〈少女〉よもう駆け出さぬ
ときに救いを求めるように、あるいは一度見ればもう目が離せないとでもいうように、主人公は「少女」のなかの小さな自分を探っていく。これらの歌では少女が光に関連して描かれているのがおもしろい。二首目においても、暗い部屋の中でテレビ画面が、主人公の顔を照らしていることだろう。そして歌集終盤から引いた三首目。「少女」もやがては暗い部屋から明るい道に出ていく。心の中の少女がやっと落ち着きを取り戻してくれた。それはちょっぴり寂しい平穏を得たということであったろうか。