覚めてまた戦争のこゑ。そしてまた妹が挽くコーヒーの香

朽木祐『鴉と戦争』
(書肆侃侃房、2019)

『鴉と戦争』の第Ⅰ章は、起こってしまった「戦争」と、ひとつの家に暮らしているらしい兄妹がそれに翻弄されるさまを描く一大連作で占められている。兄と妹の性差のあるふたつの視点を交錯させることで、いかにも男の所業である「戦争」というもののありようをあぶり出す。とはいえ、ここに描かれているのはあくまで、兄と妹の暮らし、その現場であり、実際的戦闘の場面ではない。

戦争がけふの未明に始まつた。ふはと鴉の羽根降りかかる
起きてたの ああ、起きてたんだよ 新しい幻のこと触れずに交はす
妹は仕事があつて私には仕事がなくて戦争がある
パンプスに足指を差し行くから と朝のをはりを告げる妹

戦争が始まったと、報道や噂のたぐいで知ったとしても、兄妹がそこで暮らしている以上、生活を維持するためのすべての営みは続けられていく。掲出歌の「戦争のこゑ」とは、刻一刻と変化する情況をややセンセーショナルに伝え続けるテレビやネットニュース、というように私は読んだ。そして、それを身に迫る危機というよりも興味本位というある種の本能が先に立って見続けてしまう自分がいる。その「自分」とは、むろん兄のほうである。対する妹の姿は戦争よりも生活の現場、それも生活を少し彩るための嗜好品に結び付けられる。この女性がずっと前から変わらず守り続け、そしてこれからも守り続けようとしている生活のありようがここに見え始める。

この妹は実は家事をこなしながら、パンプスをはき外へ働きにも出る。働かない兄は見聞きする戦争で心の空白を埋め続ける。実際的生活に追われる妹が「(眠りから)起きてたの」と問うたとき兄の応えた「起きてたんだよ」は、つまり戦争なんてその火種をたどれば実際の戦闘が始まるずっと前から起こっていた(起こると決まっていた)ということだったのかもしれない。でも、そんなこと、兄に言われるまでもなく妹はずっと前から知っていたのだ。パンプスをはいて仕事に向かう彼女は、社会という場の「戦闘」にずっと以前からさいなまれていたのだから。

ほんたうは わたし働いてるんだし言つてやりたいこいつ働け

先の引用の三首目に対する妹の内心の声である。

柔らかい箇所を互ひに触れ合はすだけのことでは だけのことでは
(わたしたちたたかつてゐるうつくしいわたしたちたたかつてゐるんだ)
戦争はいつはじまつて終はつたか それよりも水買ひに行かなきや
水をくださいおそろしくないのですからきつとまた立ち上がりますから

しかし、この一連は後半で、兄妹の性愛の場面が描かれるというまったく予想外の展開を迎える。そして、さらにあとに続くのは、月日を経て終結したたらしい「戦争」がふたりの住む街に残していった大きな傷跡。無職の「兄」という、ある種の弱体化された父性が、傍らで戦争が起きたときに、ずっと前から続いていた「妹」への依存をいっそう深めることになる。依存される女性は実際の「戦争」などとは関係なくずっと前からずっと後まで、ずっと戦闘の場に置かれ続けている。そのことを語り続けた前例のない作品のように思う。

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