松村正直『駅へ』
(ながらみ書房、2001)
うたわれている内容を真に受けると、ここからカフカの『城』のような物語がはじまりそうな気がしてくるのであるが、奇妙な建物というのが果たしてどんなものであるのか書かれていない。イメージができない以上、建物よりもこの歌そのもののほうが「奇妙」に思えてくる。
今日もよく働いたよと誰にともなく呟いてタイムカードを
「駄目なのよ経済力のない人と言われて財布を見ているようじゃ」
今日の一首は『駅へ』という歌集のいちばんはじめの一連「フリーター的」の中に収められているのだが、付近に載せられているのは上記のような、いたって現実的な歌の数々である。ならば、掲出歌の「奇妙な建物」もあんがい実際的なものなのかもしれない。火葬場や、運転免許センター、市民ホールのような公共施設なら、ふだんは自分に無関係ながらいつかはお世話になるだろうと思い、見ているということがありうるように思う。この歌集の主人公には、フリーターをしながら各地を移り住むような設定があり、であればもっと身近な市役所やショッピングモールの類もその町の新参者にとっては「いつの日か訪れる」建物ということになるだろうか。
しかし、私がこの歌をわざわざとりあげるのは、この「奇妙な建物」にもっと別の、裏の意味が隠されていると考えるからだ。それはつまり、多くの人があたりまえのように昇り詰めるライフステージ。就職、結婚、子育て——たしかにこれは奇妙で巨大な “ 公共建築 ” だ。歌集のページをずっと先まで繰っていくと、なるほどと思うこんな歌がある。
遠き日の三つの誓い「結婚しない・就職しない・定住しない」
「住所不定・無職」の男に漠然と憧れている子供でありき
これらは、歌集後半の主人公が遂に結婚することになるシーンの中で登場する歌。掲出歌で予感しているとおり、この主人公も最終的には、その「奇妙な建物」に足を踏み入れることになる。かつて栗木京子が『水惑星』という第一歌集を出したとき、高野公彦がそこに描かれた一人の女性の乙女(独身女性)から妻、母への変化を「女の三体」という言葉で評していた。こういったライフステージの変化はどう描かれるべきなのか、この問題は歌集、特に若手の第一歌集ではひとつの論点になりうるのだが、『駅へ』では、一度は「三つの誓い」をしたという立場からひとつの答えを出していたように思う。
岬吹く未来の風に立ち尽くし私ひとりの灯台になる
再び歌集の前半から。やがて自分に吹くことになる「未来の風」を予感しながらも、今は自分が自分の灯台としてここに立っていよう、そういう心意気であろうか。
*引用は野兎舎刊行の新装版(電子書籍版)によった。