石井僚一『死ぬほど好きだから死なねーよ』
(短歌研究社、2017)
夏祭りの日。これがデートだとすればまるで青春の高みのようなエモいシチュエーションである。恋人が金魚すくいの金魚を見下ろしながら言う「どの子がわたしたちだろうね」。不思議ちゃんぶっているといえばそれまでだが、これには青春の日々のアクセントとして相手の記憶に刻み込もうとするかのようなあざとさもある。
しかし読者にとっては、この「どの子がわたしたち」のところから歌のなかの世界がぐわんと歪みはじめるのではないだろうか。縁日ならふたりの周囲は人でごったがえしている。ひらたい水槽を泳ぐ大量の金魚をみつめる彼女。そして、一冊の歌集を隔てて、その様子を見ている私たち。その私たち読者もまたこの世という人間でごった返した枠の中に生息している。「これからすくうやつだよ」、つれあいの方は、今から掬う一匹の金魚こそが自分たちだよと言っている。すると読者にとっては、この恋人たちこそが一冊の歌集という枠の中から掬いとる「わたしたち」だということにならないか。金魚、夏祭り、読者。この三つの世界を読者のまなざしはすばやく行き来する。
すると掲出歌に書き留められた、恋人どうしの不思議な会話は、目の前の金魚の話というよりも、そもそもがこの入れ子状になった世界の構造を話し合っていたようにも思えてくる。
本当の気持ちはどこにあるのだろうマトリョーシカのようなわたくし
この部屋も誰かの描いた地図の上 そういえば戦争をしていない
雨は夢の空から降ってくりかえし、くりかえし夢の地面を打つのだ
スノードームの中に立っている女の子が胸に抱えているスノードーム
夢の中で「外は雨」って言うときのぼくらは何に守られていたんだろう
この歌集の語り手は、自分が棲んでいる世界(あるいは、自分の生きている人生)にいくつもの枠で囲われた入れ子状の構造があることをごく自然に把握している。たとえば自分の棲んでいるのが、現実の街の上ではなく地図の上だったのではないかという感覚がふいに生じる。この世界が地図だとすれば、それこそ机上に紙をひろげて見るように俯瞰的に世界を眺めることができる。現実感の極度に薄まったその世界では争いごとが起きることもない。あるいは、マトリョーシカやスノードームも入れ子状の世界を語るために象徴的に使われているのだろう。そして「夢」のでてくる二首も、夢と現実を行き来する世界の入れ子構造を語っているように見える。
神様を引き摺り出して紙の上のユートピアから閉鎖病棟
「被写体は残らず殺せ写真には命あるものを決して入れるな」
「父のような雨に打たれて」『死ぬほど好きだから死なねーよ』
石井僚一といえば、新人賞受賞作「父のような雨に打たれて」に描いた「父」の死が、実は虚構であったことがあとから発覚し、物議をかもしたというエピソードが必ず話題にされる。この歌集にも受賞作は収録されているが、私はこの一連が、「父」の死という本題に入る前に、「紙の上」「閉鎖病棟」「写真」といった世界を小さく囲い込む枠について言及していることが気になっている。二首目はいったい誰のセリフなのだろう(「神様」だろうか?)。「写真には命あるものを決して入れるな」という命令が下されている以上、むしろこの一連では作者がわざわざ父の死という虚構を用意したことにこそ意味があったと思える。父の死んでしまった世界、その死がまだ訪れていない世界。わたしたちは歌というものを使って、これらの世界を分割する枠を実に容易に飛び越えることができる。現実に父が死んでいたかどうか、そんな表面的なことよりも、ずっと語るに値する世界の在り様だ。