辻聡之『あしたの孵化』
(短歌研究社、2018)
『あしたの孵化』という歌集にはほんとうの主題が別にあるとは思うものの、どうしても「ギャル」をめぐる歌がおもしろく、印象に残ってしまう。なかでも歌集冒頭の「カラーバリエーション」という一連にある、掲出歌を含む三首の並びは傑作だといっていい。
黄と黒の縞にふくらむ蜘蛛の腹 母はほうきで巣を払いたり
ギャルが嫁にくる 冗談のようなメールののちのしずけさ
ハエトリソウのごとき睫毛をひらかせて彼女は見たり義兄なるわれを
今放映中の朝ドラを傍見していてもそのような印象を抱くのだが、「ギャル」というのは、まじめに細々と生きる人々のコミュニティをおびやかす黒船のようなものとしてしばしば描かれるようだ。ここに引用した二首目は、メールのやりとりなのに「静けさ」というのが不思議におもえるかもしれないが、これをLINEの「〇〇家」と名づけられたグループトークなどに置き換えてみればわかりやすい。「ギャルが嫁にくる」という衝撃の報告ののち、しばらくして静まり返ってしまったトークルームに、主人公は一族の各人が抱く危機感を読みとっているのではないか。このように歌集の中で初めて「ギャル」の存在があかされたのは二首目の歌なのだが、これに先立つ蜘蛛の歌も「ギャル」の出現を予告するかのようだ。黄色と黒の警戒色のクモといえば、コガネグモというかなり大型のクモ。ここでは「母」個人のそれというより、家族皆のと読んでもいいかもしれないが、〈ギャルの嫁〉の脅威を大げさにとらえる心理が、大きなクモを払いのけようという描写に反映されているのかもしれない。
そして今日の掲出歌である三首目。現実に目の当たりにしたその人を、クモが虫をとらえるようなわかりやすい怖さではなく、食虫植物のごとき未知の恐怖として描写しているのががおもしろい。そしてもうひとつこの歌の読みどころとして指摘しておきたいのは、前半で「ギャル」(弟の妻)から主人公へのまなざしが、捕食者から獲物へという野生の世界でも通用する繋がりあいに基づいているのに対し、歌の後半に書かれる主人公の自己認識は、「義兄」という人間が家族のつながりを保つために創出したかりそめの属性に過ぎないという点だ。もしかすると、家族関係に縛られて物事を考えてしまう主人公にとっては、目の前に出現した刹那的な関係に没頭する生き方へのあこがれがあるのかもしれない。(もっとも、この歌にも「ギャルなら獲物のように自分を見るにちがいない」という先入観ははたらいているのだろう。)
残念ながら、歌集を読み進むと、この義妹は歌集後半で主人公の弟と離婚することになる。次に引くのは「彗星」という一連から。
どこへも行けないなら同じだろう薄闇にハエトリグモを覆うてのひら
義妹からかつてもらいし手作りのチョコの行方を思い出せざり
きっともう会わざるままに育ちゆく姪がいること 彗星に似て
夢とおもうギャルの義妹も笑わざる姪を抱きたるわれの両手も
ここでは、離婚したギャルの義妹や姪との別れが描かれるのだが、やはりクモが出現する。当初コガネグモという巨大クモに暗示されていた義妹は、いつしか一族の一員として馴染み始め、ここではハエトリグモという小さくて愛らしい、身近な益虫にされている。それでも「義」のつく間柄に過ぎないその人は離れていくことになった。彼女がどこへ行こうとも、生まれながらにしてこの家族にいる主人公はこの場にい続けなければならない。
