これが最後と思わないまま来るだろう最後は 濡れてゆく石灯籠

大森静佳『てのひらを燃やす』
(角川学芸出版、2013)

私にはこの歌の感覚がよくわかるような気がする。人生のいちばん最後の日は、きっと突然に訪れる。ああ今日という日が最後なのかと、ずいぶん遅れて思い至ったとき、この世の姿をすこしでも強く目に焼きつけておこうと、視覚がひどく研ぎ澄まされていく。この歌を読むと、石灯籠におちたひとつの雨粒が、石の表面に染みのように広がって色を濃くしていくさまが見えるような気がする。

その靴の踵を染める草の色もうずっと忙しい人である
逢えなくて読み継ぐ本にきらきらとガジュマルの木は沼地に育つ
「硝子の駒」『てのひらを燃やす』

掲出歌を含む「硝子の駒」一連は、なかなか逢うことのできない恋人へのつのる恋慕を読み継いでいく五十首(2010年の角川短歌賞受賞作)であるが、だとすれば「これが最後と思わないまま来るだろう」というその「最後」は、人生の終りではなく、もしもわたしたちに別れがくるならば、という万一の仮定の話をしているととる方が正しいと思われるだろう。掲出歌では、人生の終わりを意味する「最期」ではなく「最後」を用いているわけだし、さきほどあのように書いておいてなんだが、実際的な読解としてはそうなるのだろうと私も思う。

しかしこの歌集をさらに読み継いでいくと、「あなた」への恋慕は、心が満たされない今から、きっと満たされるにちがいない将来へと、まなざしを徐々に先へ先へと送るようになる。そうやってまなざしを先に移していった結果、「あなた」と別れなければならないという万一の将来への恐れからも自由ではなくなる。

遠い先の約束のように折りたたむ植物園の券しまうとき
きみいなくなればあめでもひかるまちにさかなのようにくらすのだろう
君の死後、われの死後にも青々とねこじゃらし見ゆ まだ揺れている
どこか遠くでわたしを濡らしていた雨がこの世へ移りこの世を濡らす

ここに引用した二首目は、「きみいなくな」るという最悪の可能性を直視したくないばかりに、わざと読みにくいように全部をひらがなで書いたということだろうか。さらに逃げるように先へ先へと見通していく末に、まなざしはついに自分たちの死をも透過し、「ねこじゃらし」の揺れる情景をただ無感情に見つめている。

さらに、四首目は、今回の掲出歌に呼応する重要な一首だと言えるだろう。まなざしを先へ先へと送るばかりに心が「どこか遠く」へ行ってしまった主人公は、ついに後ろを振り返って、「最後」の日をぼんやり空想していたかつての(すなわち掲出歌の)主人公自身の姿を見出す。足もととまなざしの先のふたつに別れていた主人公はここでもういちど一体となって、思えばずっと降っていた雨を感慨深く見つめているかのようだ。

*引用は新版(角川文化振興財団、2018)によった。

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