中津 昌子


南の洋(わた)の底ひに水漬きつつ 白じろとして 面わ冴えゐる

岡野弘彦『バグダッド燃ゆ』(2006年)

 

 

「南」はみんなみ、と読むのであろう。

一首おいて前には、〈たたかひて 帰らずなりしかの友の 学生帽を いまだわが持つ〉、そして次には〈かかる世に替へし われらの命かと 老いざる死者の声 怨みいふ〉という歌が並ぶ。

南方の海の底に沈んだまま、その顔がしろじろと冴えている、という歌は、今なお死ぬに死なれぬであろう死者の魂を思いやってのものである。
それは、若い命を無残に断たれたことと同時に、“現代”に向けられた無念なのである。

 

 一字空けは掲出歌に限らないのだが、ここではその効果によっていっそう思いをためるようだ。

 

 

先日、私は母方の先祖の墓を久しぶりに訪れた。そして祖父母の墓に並んで立つ伯父の墓の前にしばらく佇んだ。
墓には、小笠原諸島附近ニテ戦死と記されていた。
死んだ場所が、附近としかわからないということ。
それさえわからぬ人は多かったのだが、しかし若い魂の行方を思うと、どこへ向かって手を合わせたらいいのか、わからぬような気がした。

 

 

・豊葦原の国おとろへて、ぶた草の泡だつ道に 人は咳(しはぶ)く

「ぶた草」がユーモラス、かつやけっぱち。ここでも今の世に向けるまなざしの厳しさはかわらない。

一方で、この甲斐性のない“現代”も、ある所では逆らいようのない、人間全体の金属疲労のようなものが関わっているようだということが、時の流れと共にわたしたちにも感じられてきているのではないだろうか。
だから仕方がないとは、毛頭言うつもりはないが、そう思って冒頭の歌を眺めると、この死者は、わたしたちに対する者ではなく、わたしたちと共に人間のかなしさを在る者のような気がするのである。