大松 達知


ひとりゐて飯(いひ)くふわれは漬茄子(つけなす)を嚙むおとさへややさしくきこゆ

斎藤茂吉『小園』(1949)

 

 茂吉の歌は退屈である。

 しかし、秀歌だけを読めば茂吉の真髄がわかるかといえば、そうはならない。

 平凡そうで退屈そうな歌を幾十とつづけて読むとき、その平凡が非凡に変わり、退屈が黄金の退屈に変わってゆくのを実感する。それが茂吉の楽しみ方の一つであろう。

 だから、秀歌選の、見栄を切ったような茂吉だけを続けて読んでも、なにか抜け落ちている気がするのだ。

 

 『小園』は、戦争末期から戦後にかけての時期の歌集。

 掲出の一首は昭和19年、故郷山形県金瓶村に疎開中の作品である。

 戦争中とは思えない静けさ。いや、「思えない」というのは偏見であるだろう。現在、報道される「戦争」(主に太平洋戦争の時期)は、都市住民の生活の苦しさや戦闘の過酷さ、その背後のドラマを中心にしている。

 この一首のような、平素の暮らしの時間があったことはわざわざ伝えない。茂吉を通して、ここに知るのである。

 

 ただし、この一首は、制作時期にかかわらず、秀歌である。

 ごくごくわづかな音と一瞬の心の動き、それだけで一首を満たしている。短歌という器の最大の武器である、極私的なことを歌のリズムに任せて述べているだけだ。「おとさへや」の「や」だけで一首を持たせていると言ってもよい。

 退屈が黄金の退屈に変わる瞬間である。