松平修文『水村』
(雁書館、1979)
ふなは魚で、ひばりは鳥。くさきりは、キリギリスに近い仲間の昆虫である。すべてひらがなの一首のなかに、そういった生き物たちが隠れている。そういえば私は、すこし前に大森静佳『てのひらを燃やす』から、やはり全部ひらがなで書かれた、
きみいなくなればあめでもひかるまちにさかなのようにくらすのだろう
という歌を引いて、「『きみいなくな』るという最悪の可能性を直視したくないばかりに、わざと読みにくいように全部をひらがなで書いたということだろうか」と書いていた。すべてひらがなで書かれた点ばかりでなく、「きみ」を失う可能性に言及する内容、「ふな」や「さかな」が出てくるところ、とこの二首には似ているところは多い。でも、決定的にちがうのは、大森の歌にあったような語りながら今にも泣きだしそうな切実さ、危機感のようなものが、松平の歌のほうにはどういうわけか感じられないというところだろう。それどころか、松平の歌の語り手は、なんだかにやにや笑いながら「そういうところが好き」と言っているような、そんな気がしてしまうのは私だけだろうか。
大森の歌にいる「さかな」は、きみを奪われたいわば被害者としての〈わたし〉の姿である。一方で松平のいう「ふな」は、きみを奪う犯人の候補。それも「ふなやひばりやくさきりに」と列挙していくところに、この主人公の偏執的な趣味のようなものが見え隠れする。
あめんぼう ゐぐさ とうすみ さぎ うぐひ 飼ひならす娘は名を「川」といふ
まよひどりここに憩ふとこひびとがさし出だすてのひらのいれずみ
『水村』にはこんな歌も。そんなにもいきものをたちに好かれる「娘」は、川であるという種明かしが最後にある一首目。だが、苗字に「川」の字が入っている女性を、じゃあ「あめんぼう ゐぐさ とうすみ さぎ うぐひ」たちと仲がいいにちがいないと主人公が勝手に想像している、種明かしをされてなお、そんなイメージも捨てがたく残される。あるいは二首目は、むしろ川や山や森といった多くの生き物たちを囲い込む自然が擬人化されて目の前にいる、というふうにとられることもできるだろうか。私はこの二首目の終わりに差し出されたものが本当の鳥ではなくて「いれずみ」だというところにしびれてしまう。いっけん完全完璧に思えるその世界に憩い続ける主人公に向かって、「こひびと」は薄っぺらな命をひけらかす。この「世界」に居続けることのあやうさが、小さな落とし穴のように歌の終わりに口を開きつつあるように見える。
こひびとの眸にうつるわたくしのかほ ずぶぬれのあぢさゐのはな
きみにしか解らぬ言葉つらねたる文をぬすみてゆきし風あり
ここに引いた一首目ついても、もし単なる二物衝突としてこれを無罪放免にしてしまう読みがあるとすれば、私にはそれはとても惜しく思われる。二物衝突のふりをして、やっぱり「わたくしのかほ=あじさゐのはな」だと言いたいのではないか。このふたりにしか通じ合えない、いや「こひびと」に伝わっているかははなはだ怪しいけれど、すくなくとも主人公としては、恋人にしか伝わらない言葉のつもりでメッセージを送っている。きみの好きないきものの姿に、今の僕は見えているでしょう? と。
*引用は現代短歌文庫『松平修文歌集』(砂子屋書房、2011)によった。
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おかげさまでどうにかここまでたどり着きました。
一年間おつきあいくださりありがとうございました。(土井礼一郎)