門脇篤史『自傾』
この歌が入った連作のタイトルが「南山城展」で、この仏が展示された仏だということは事前に読者へ知らされているので歌集を読み進んでこの歌に行き着いたときには、まっさらな一首の鑑賞というのはもうできない。もしかしたら、「ひんやり」に木陰にたたずむ木造建築物の空気を感じたりすることがあったのかもしれないけれど、もうその読みはできない。
ただ、この歌をあらためて読んでいけばやはり言葉の遠近の具合がちょっとおかしくなっていることに気づくだろう。たとえば「修理」と「仏いませり」の近さ。これはこんなに近づいてはいけない言葉なのではないか、という感じがする。「慈悲」と「ひんやり」もだいぶ稀有な近づき方をしている。言葉の温度感覚からすれば慈悲は温、ひんやりは当然冷、修理は冷、仏いませりは温となる。矢継ぎ早に温冷冷温となって移りかわる。ちぐはぐであると思うのだけれど、このちぐはぐさはちぐはぐな光景を描写したために起こったものと考えれば納得がいく。
そもそもが信仰の対象であった仏像は、今博物館に展示され展示品として来館者の歴史的まなざしや美術的まなざしを受けている。なかには信仰的まなざしをもってこの仏像を見ていた人もいるとは思うが、割合として多くはなかったのではないかと想像する。白い照明に照らしだされているから「ひんやり」が、また、飾られたように配置された仏像だから「修理されたる」が光景の描写として馴染む。時代を経て信仰的なものから歴史的、美術的なものへと重心が移りつつなお信仰的なものでもある仏像。そうした仏像の現代での微妙な立ち位置が歌の言葉の一見ちぐはぐに思われる選択から見えてくる。
これは『自傾』の作品全般に言えることかもしれないが、門脇作品の特質は動かなさだと感じる。門脇の持っている定型はおそらくとても定型らしいかたちをした定型で、その四隅ぴったりに言葉があてられる。この動かなさは力づくで定型が言葉を押さえつけているような一方的な圧力ではなく、トランプのカードでタワーをつくるときのような、均衡によって成り立つ動かなさなのだと思う。
あえて歌の躍動を捨てて、不動の世界を築こうとする意思が至るところにみなぎっている。
