透きとほる水が岩間を走るとき盛んなる水の水音立てつ

『テクネー』香川ヒサ

私が生まれる。そう自覚されるのは私の「外」に私ならぬものがあると知ってからである。外があり、同時に・・・私がある。音が聞こえ、岩場が見え、澄んだ冷たい水はほとんど透明だというのに不思議な光の加減でありありと、もはや触れんばかりに視野に接近する。当初そっけない視線の振る舞いはやがて凝視となる。私は「外」に意思を持って触れ、両眼もしくは両手できらびやかな表面を狂おしく撫でまわす。たとえば針で突かれる寸前にすら瞳はその鋭いきらめきを貪欲にとらえようとするだろう。物狂おしい果てしない欲求でいつまでも人間を苛ませるものはそのものの知性なのだろうか、本性なのであろうか?
しかもこの私は、水源から現れでた水が岩場を流れゆくことを、世に勢い盛んな水の喜びとうるおいがあることを、またその音の有様を鳥のまなざしでもってすでに知っている。あらかじめの鳥の知識が人の風景にふいに立ち現われたことにこぶしを握り締めたくなるような発見があり、発見はいまふたたび、人の言葉として綴じられている。言葉の綴じ目からは、勢い良い水の調子や、漏れ聞こえる水流の音が覗き込む間もなく力強くにじみ出る。何度でも言語が数知れず描いてきた鳥の獣の人の軌跡を照らしている。言葉は物質の外にある。書かれた「水」もまた水の外にある。私がそう自由にならぬ手を伸べてやまない水があり、さらに水がまた「水」という名を託されて何かを待ち続けていることは、まして彼が光となってこちらへ届き続けることは、痛みでなければ何なのだろう。
言葉にともなう痛みの本当の姿を私は知りたい。物狂おしい。ずっとそう感じながら生きている。さもなくば、生きていかれない。

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