小さめのを三つではなく大きめのを二つ握って包んで渡す

堀静香『みじかい曲』

 

一読、おにぎりの歌だと早合点してしまうかもしれない。大きさを自在に変えられて二つか三つくらいの握ってつくる、包んで相手に渡すもの、といえばおにぎりなのだが、それは「〇〇といえば〇〇」の公式が成り立つ空間での話であって、ここにはあまりふさわしくないように思う。『みじかい曲』は横のラインでできた歌集であると思うのだけれど、たとえば

 

畷道ならんで歩く、無言で歩く目の前をでたらめに蛾がとぶ

 

「ならんで歩く」と「無言で歩く」には歌を読むうえで大雑把にふたつの時間の流れがあり、ひとつはならんで歩くの時間の先に無言で歩くがある、という認識と、もうひとつはならんで歩くと無言で歩くには時間の差がなく並列になっている、という認識になるかと思う。
ただ、この歌では二句、三句の七五が「ならんで歩く」「無言で歩く」の七七とされこの七七を読もうとすれば並列になる、と思う。その結果、無言で歩いた先に蛾がとぶのではなく、蛾は蛾でずっと飛んでいる。
短歌が持っている縦の重力があまり働かず、どうも横に流れていく動きが生まれてくる。この一首は七七の並列の作用が分かりやすいかたちで出ているから引用したが、他の作品にも何らかのかたちで歌の流れが横に発生している感じがする。そして、横の流れというのは着地点がない。縦の流れであれば重力に従って落下してかならず地上が待っているけれど、横には地上がない。掲出歌はだから「〇〇といえば〇〇」という落としどころを何か拒みつづけているのだという感触がある。

これは自分の感覚を敷衍した想像だが、読者は1+1+1+1があれば4と受け取りたくなるものなのではないか。ただ、それは縦の流れが生きている空間の話であり、堀作品にそれを適用しようとするとき、不思議な躊躇が生まれる。
掲出歌には正解という落としどころがない。これはまあおにぎりだと思うが、おにぎりであってもなくてもなんでもよくて、1+1+1+1=1+1+1+1のままこの空間を掴みきらないで、そのてのひらを逃れていく空間の感触を見出すことによってはじめて、この歌の持ち味が出てくるのだろうと思う。

 

三人がカメラ目線のものはなく桜がきれいな二枚を残す

 

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