流れ去る者とし見ればまぼろしの船頭らみな口笛を吹く

坂井修一『ラビュリントスの日々』
(砂子屋書房、1986)

自分自身も、身の回りのあらゆる文物たちも、みな遠からず流れ去る。そう思えば、ささいなものごとにいちいち悩むのもちょっとばからしく思えてくる。その「ばからしさ」をこの歌は「まぼろしの船頭らみな口笛を吹く」と表現する。つまり、ひとたび「流れ去る者」だと考え始めると、仕事の書類にも、読みかけの歌集にも、同僚の顔にも、みんなミニチュアの船頭がひとりずつのっかっていて、竿を片手に口笛を吹いている。こちらの気苦労も知らずに、ひょうし抜けするほど、気楽な顔をして——。

掲出歌を含め、引用は歌集中の「竹橋」という一連から。竹橋といえば、皇居のお濠ぞいの地下鉄東西線の竹橋駅周辺、毎日新聞社や東京国立近代美術館のあたりなのだが、調べてみるとその新聞社と美術館のあいだにかかっている石の橋が「竹橋」であったらしい。そこを渡ろうとし、水面を見下ろした瞬間、なにごとも「流れ去る者」と思って見てごらん、というヒントがひらめきとして主人公に与えられた。自分の姿が映っていた水面に、いろんな人の顔や仕事の情景が浮かび上がって、よく見れば船頭らしき姿がある。なんだかそんなイメージを喚起する掲出歌である。

橋桁に縄からまりてさがりたりわがうぶすなは西方にあり
直立し川を越えゆくこの奇異なしゆの一個体われが映りぬ
「竹橋」『ラビュリントスの日々』

一方、引用した一首目で橋桁にからまる縄を眺めながら、西方にあるという「うぶすな」(=ふるさと)を意識するとき、その「縄」には、苦労を重ねながらどうにか東京にとどまり続ける自分の姿が重ねあわされるであろう。生まれた土の上からわざわざ遠くに出かけて行って、一過性のものごとにいちいちこだわり続ける自分というふしぎなイキモノ。それが人間である、というか、それが東京にとどまりつづける、ということであるらしい。

黄なる菊ひくく大きくわらひそめてFの死はわれを過ぎゆきにけり
十年はわれを学者にFを死者に造りかへたる遊びのぬし

これは歌集の最後におかれている「世紀」という一連から。それよりもすこし前に「Fの死」と題された、研究者の仲間であったらしいその人の死が詠まれた数首があるのだが、歌集の最後でふたたびそれを振り返っている。引用の二首目は、末尾に登場する「遊びの主」に例の船頭の気楽な姿が連想される。月日という船頭は身の回りのすべての人々の顔の上にくっついていて、口笛を吹きながら、主人公からすこしずつみずからの「舟」を——ときには死という手段をもって急激に——引き離していく。

*引用は『現代短歌全集』第17巻(筑摩書房、2002)によった。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です