夏のこの蜜柑の花はゆうがたに宇宙飛行士のように開くも

正岡豊『白い箱』

 

この蜜柑の花は咲いているのだろうか。「夏のこの蜜柑の花は」まで読み通したとき、蜜柑の花は咲いている。「花」と書かれたものを読むとき、そこには(ひらかれた)という透明な言葉がすでに紛れ込んでいる。が、「ゆうがたに宇宙飛行士のように開くも」まで読んでいくと、咲いていたはずの花がいったん閉じる。この蜜柑の花はゆうがたに開く、と骨組みだけにすれば蜜柑の花はまだ咲いていないことがはっきりするだろう。そうであるにもかかわらず読者のイメージにはいったんは花が咲きひらく。ここで読者が共有するのは、この主体が感じ取っているまだ咲いていない蜜柑の花の、咲きひらいたイメージが展開するその運動のようなものであるのだと思う。

あらためて「夏のこの蜜柑の花は」を見てみると、「花」には「(ひらかれた)という透明な言葉がすでに紛れ込」みながらも、いくつもの「の」でこつこつ途切れる言葉運びがいかにもこぢんまりとした手ごたえを生んで、言葉のつらなり方としてはひらききった花というよりもころころとした蕾状の存在を思わせる。「この蜜柑の花」も、対象の限定であると同時に時間的な限定にもつながっている。とにかく二句目まではころころとして小さくちぢこまっている。それが三句目から一変する。「ゆうがたに宇宙飛行士のように」はデフォルメすれば「ゆぅーうちゅーひこぅーよぅー」である。一気に解放される。二句目までかがんでいたぶん、三句目以降はよく伸びる。「開くも」での落ち着きがあるので一首は落ち着いた全体を持っているが、歌の中盤はほとんど無重力状態と言ってよい。

それでは「宇宙飛行士のように開く」はどういうことなのか。そもそも宇宙飛行士は開くものなのか。「宇宙飛行士のように白しも」ではない理由は何なのか。

蜜柑の花は白く、その白は厚みのある白というか、あの宇宙服の白と同じ質のものである気がする。宇宙遊泳は宇宙飛行士が無重力かつ無限の宇宙空間に身を投げ出してみずからを宇宙に晒す行為である。画像で見れば宇宙に浮かぶ白い人体はなにかぽかんとして見えるけれど、そこには強烈な孤独と恐怖があるはずだ。歌のなかで無重力状態に晒された蜜柑の花もはじめての空間にその白をさらけ出す。宇宙空間の宇宙飛行士と同じように一見ぽかんと見えながら、その視線をミクロに絞っていけば何かしら花が絞り出す勇気のようなものも見えてくる。

「宇宙飛行士のように開くも」はいったん宇宙飛行士と蜜柑の花をその白でブリッジさせながら、最終的にふたつの白に秘められた勇気を結んでいる。
結局のところ、この一首が問題にしているのは色彩ではなく勇気のほうである。

 

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