小池光『日々の思い出』
物事には過程があって結果がある。この歌は徒競走かと思うが、おそらくは一生懸命走るという過程を経たその結果の最下位である。しかしここでは結果のみが切り出され、しかも最下位は「びりけつ」という言葉でもって置き換えられている。ここまででもだいぶひどい気がするが、下句もそうとうな描写だと思う。
「卑屈なるおもざし見せて寄るをさびしむ」。人は最下位になったことだけでも複雑な心情になる。さらに一生懸命走った末の最下位を自分の親が見ていることの恥ずかしさがあり、さらに自分の表情を見てさびしんでいる親の様子が見て取れて、それはきっとつらい。雪崩れるような感情のコンボが発生している。これは子の側に立った感情の見立てで、親の側はどうか。「さびしむ」とあるのでもちろんさびしい気持ちではあるといったんは解釈しつつ、それ以上に子の表情をものすごく観察しているような手触りがある。「卑屈なるおもざし見せて寄る」の執拗な具体と「さびしむ」の淡泊な抽象の落差がそうした手触りを生んでいるのだろうと思う。それぞれに充てられた文字数を見ても、力の乗り方はまったく異なっている。下句の核心は研ぎ澄まされた刃のような光が乗っている「卑屈なるおもざし見せて寄る」であり、「さびしむ」はほとんど空気のようだ。この辺りに「小池光」が粘りけをもって匂っている。同じシチュエーションを短歌の引力にしたがって強引に記述するならば、
びりけつになりて我が子が卑屈なるおもざし見せて寄るを抱き留む
くらいになるのかと個人的には想像する。自身の行為を入れることで一首の世界は中和される。掲出歌の親もさびしみつつ抱き留めたのかもしれないが、歌のうえでは「さびしむ」と自身の感情のみを述べることで、一首の中和は果たされず、また親と子の距離は縮まらず子は卑屈なおもざしを見せながら延々と寄り続ける。そして親はそれを延々と観察し続ける。どこまでいっても「卑屈なるおもざし見せて寄」る瞬間が横にスライドしながら生き延びていく。
表向きに描かれているのは子からにじみ出る後ろ暗さでありつつ、その裏にはびっしりと親の視線の粘りけの嫌な感じが貼りついていて、だからこそこの歌はときおりこちらの意識のなかに浮かんでくるのだろう。
としよりのからだは手ぶくろのにほひすとわが子がいへるときにかなしも
『草の庭』