スタート・ブロック一気に蹴らむその四肢の力たわめて膝つく走者

『神の痛みの神学のオブリガート』古谷智子

例の「位置について・よーい」という風景であるが、語順がまるで違っている。位置について⇒よーい、であればその通り身体を動かすだけにすぎないけれども(しかし「用意」と言われて即座に〈走る用意〉と含意されるのは面白い)、この歌では「一気に蹴」ることが第一に来る。その手前には「スタート・ブロック」がライトを浴びるかのように置かれ、のちに「走者」が「膝つく」動作が現れる。蹴ることと膝をつくことは、ほんらい順序としては逆なのである。語順に沿って認識を均すならばまずは「スタート・ブロック」自身に〈蹴る〉という動作がすでに含まれていて、その器具をどのように蹴るかといえばこのように四肢を折り膝をつくのだ、という描写が手本のように示される。短歌の要請する語順の整備の結果ではあろうが、眩暈のするようなつづら折りが生まれている。
「たわめて」という動詞に、主観が含まれている。よく見れば「一気に蹴らむ」もまさしくそうである。走者が何を思って走るのか互いに知るすべがないことは見えなくとも練りこまれ、ゆえに視点は切片として輝く。そのような感覚で読むとこうした歌が親しく思える。

帰りこし子の冷たき手すがすがと冬の原野を掬ひてきたり
白布のかすかなる起伏死して伏す祖父の面輪にそひてゐながら
おのれともひととも未だ分ち得ぬ嬰児の視線太太とせり

「冬の原野」に溶けこんだものは何だろう。掬うことしかできぬ手をさらに見届けることしかない(おそらく、直に触れてはいない)視線の中で、そのとき見えた原野の幻想には、そこにないものほとんどすべてがあったのではないかと思われてくる。かたや死者の顔にかけられた白布には布地の表面しかない。もう主観が通じることのない顔立ちは起伏だけを残してあくまで白く隠されている。嬰児のおぼつかない視線が「太太」と結論されることも、それは「おのれ」「ひと」を分けないがためにいっそまるごと包んでしまっているからだろう。怯えをもたない視線がうらやましい。そう思って私はこの歌を読んでしまう。人の一生は、あらゆる意味において深く深く織布であるだろう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です