高野公彦『水木』
倒置法の見本を示せともし言われたら、この歌を挙げると思う。この歌をはじめて目にしたのはたしかアンソロジーのなかだったが、高飛び込みの場面だと疑うことがなかったし、今でもそう思っている。ただ、よくよく考えてみればどこにも高飛び込みだとは書かれていない。ふつうの競泳も背泳ぎ以外はスタートする際には飛込台をはなれて空にうかぶものである。「たまゆら」という言葉からも高飛び込みか競泳かを判断することはむずかしいように感じる。となると、「暗し裸体は」に高飛び込みだと思わせた何かがあるということになる。
「暗し裸体は」の暗さは逆光によって生じた物理的な暗さだと言い張ることもできなくはない。そういう含みをもちつつ、「たまゆら」が見せた人体という存在のあやうさを言っているのだろう。その一瞬において人体は空中から逃れようがなく本能からしても地面より遠ければ遠いほどあやうさは濃くなる。その濃さが暗さになるまでにはそれなりの距離が必要で、そうなると競泳よりも高飛び込みのほうに傾く。そして倒置法である。試しに倒置をはずしてみる。
飛込台はなれて空 にうかびたるそのたまゆらを裸体は暗し
倒置をはずせば一直線に前進することで、これはむしろ競泳で空中を前に切って飛び込むときの動きに近づく。
飛込台はなれて空 にうかびたるそのたまゆらを暗し裸体は
倒置されることで一首の着地点である「暗し」は歌の途中に組み込まれる。高飛び込みの場合、空中に飛び上がった人体は上昇する力を下降する力に奪われながら、ある地点で上昇と下降が一瞬釣り合うはずだが、そのポイントとなっているのが「暗し」なのだと思う。上昇と下降が釣り合う一瞬を空中での着地点とするならば、「暗し」は一首の構造を見ても、高飛び込みという行為の上でもきちんと現象の途中でいったん着地することに成功している。この歌でしか成立しない倒置法の唯一無二の効果だと思う。「裸体は」の脱力したような定型上の終わりも力と力の拮抗がはがれて下降に奪われ尽くす無惨ともいえる姿に重なってきて、あらゆる面で神経の通った一首になっている。
あきかぜの中のきりんを見て立てばああ我といふ暗きかたまり
『汽水の光』