疲れきつては出せない声もあることをきのふの雪がにじみこむ川

『朱雀の聲』林 和清

今更かとは思うが疲れの侮れないところは、原因があるようでいて突き止めがたいことにあると思う。私に経験はないがマラソンを走ればまず途方もない肉体的な疲労に見舞われることだろう。世にいう〈疲労感〉なるものは、さまざまな方面から少しずつ蓄積したものがどこへも出ていかずに、やがて本当に身体を重苦しくさせる、精神と肉体との結びつきが露骨に表現された結果のひとつだ。その正体を知らないが「疲労物質」とはよく言ったものである。もうおわかりだろうが週末に至って私にはちょっと疲れがある。
「出せない声」について考えてみよう。

①出る声
②出ない声
③出さない声
④出せない声

おそらくざっとこの4パターンがある。ちょうど随意運動と不随意運動があるように、声帯のふるえによって発生する声には、意思と制約のレベルを少しずつ変えながら、いろいろなパターンが存在している(と思う)。疲れて湯舟に沈んだときに思わず漏れるのが①、ちょっとした相談をしたいけれどうまくタイミングを合わせられなくて見送ってしまったのが②、どうして私はこれ・・をしているのだと満員の車両に大声で叫びだしたくなるのをこらえているときに③……②と④が比較的近しくて、④のほうが声を出すことに対する制約が強い。疲れ切った肉体はいっけんするとがらんどうのようなのに、なにか疲労の代償としての沸き立つ力のようなものを得ていて、その過熱した力が声帯を押しつぶして発声をさまたげる。また、本当は出したほうがよい声であっても、先の力がやはり判断を迷わせる。「声ある」とあるので、①~④の声はさまざまに絡み合って、こうした複層的な読み方にごく自然とたどりついている。
声とはまた、堂々たる喩でもある。意見やコメント、発言といったものは音声であろうとなかろうといったんすべて「声」だ。だから「出せない声」はあえて視覚的に寄せるならばサイレント映画の身振りのような、声が出ないかわりになにか全身が訴えている――もちろんこの一首に具体の動きはない。動いていないけれど、動きという概念だけが身もだえながら存在する――かのような、不思議なふるまいをする。「あることを」で上句が途切れていることも、ここにない「動き」の不完全性を露にしつつフォーカスをあてている。
「にじみこむ」という動詞は珍しくて、きのう雪が降ったことと、いままさに目の前で雪が川面に舞い落ち、川と同化していく風景をパラレルににじませている。人の身体がしばしばあるように川に例えられるならば、落ちてくる雪は悲しいことにうつくしい疲労物質なのである。

初雪にかざすてのひら世界よりなにを奪ひて生きるわれらは

雪は声をもたないことがここでもわかる。

夢の中で滅茶苦茶さみしい時がある草野を水が剖く地をゆき

「剖く」は〈ひらく〉と読んだ。この歌集の第一部はコロナ禍の時期に書かれた作品をまとめてある。きょうの掲出歌は一首の中に響きあう喩であるが、あるテーマが反映されると連作の全体が無数に現実と絡み合って心の中が騒々しくなる。俗な副詞にすぎない「滅茶苦茶」自身がさみしさを背負っていると感じていたたまれないのはなぜだろう。下句はなにかの現実を言葉がすくいとって、でも、とてもうつくしいからここで止めておきたいのである。

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