岡本真帆『奇遇』
へたくそなハンドサインだとしても、これはそうとう高度な部類のハンドサインではないかと思う。ハンドサインと言われてぱっと思いつくのは握った手から親指をあげてグッド、親指と人差し指で丸をつくってOK、というようなその場その場の瞬間的な意思疎通のために使うものであって、「来世で」の時点でそもそものハンドサインというものの概念を飛び越している。あるいは、ハンドサインのなかでも指文字の類だという可能性も捨てきれないは捨てきれないとして、そうだとすれば表記は「ら、い、せ、で、」となるはずだ。
ハンドサインは万国共通のものではなく、国によっても違うし、より小規模なグループで独自に使用されるものもあるのだという。場合によっては一人と一人の関係性のなかだけで作り出すことももちろん可能なものだろう。この歌のハンドサインも「来世」が出てくる時点でごく私的なハンドサインなのだということがわかる。初句に「へたくそな」があるから下句の「来世で、きみは、枇杷に、なりたい」という読み取りは間違っているものかとも感じる一方、文字通り枇杷になりたいとサインを送っているのかもしれない。サインがきちんと読み解かれているのかそうでないのかは、もはやだれにも分からない。宙ぶらりんなまま一首は「?」で終わる。
伝達というものは扱う対象が高度になればなるほど難しくなるどうしようもないものだけれど、この歌にぐっと来るはそうした伝達の難しさ、意思疎通の不可能性と並列に相手のサインを正面から受け取っている気配がするからなのだと思う。
「来世で、きみは、」という文脈に沿えばそうそう「枇杷」は出て来ない。おそらくは文脈を考えながら「枇杷」ではない何かを読み取ろうとした時間もあったはずで、それでも相手のサインと自身の読解を信じて「枇杷」を選び取っている。相手のサインをものすごくまっすぐに受け取った感じがこの「枇杷」に凝縮している。「枇杷」が結果的にすれ違っていたかいなかったかはまったく重要なことではない。むしろ宙ぶらりんが終わりまで保たれていることではじめて、一首のうちに普段はなかなか姿を見せないコミュニケーションの心臓部が示されることになったのだと思う。
おたがいの花を踏みつけないように束ねた花を渡しあったね
