燃えさかる風車の画面のぞくとき炎のなかに映る眼球

『薄明穹』楠 誓英

こうして文字を書き連ねる瞬間も私は画面に向かっている。もう切り離すことのできない日常として「画面」はいたるところに存在するしその四角い窓が万物を映し出す。はじめはテレビだと思ったけれど、反射の強さを考えるとこの場における画面はやっぱりスマートフォンやタブレットかもしれない。なんとなくの視聴ではない、魂を攫うような熱中がある。
「風車の画面」――この「の」は四枚の羽根がしっかりと取り付けられた軸であり、「風車」と「画面」を、「燃えさかる」と「のぞくとき」をそれぞれ点対象にむすぶ焦点となっている。助詞「の」のはたらきによって巧みにつなぎ留められ組み合わせられた単語のため、具体の描写に対しては風車の〈ある〉画面といった程度の読み取りにとどまり、その周辺情報(それはどんな場所か、どのように燃えているのか、どのような大きさの何のための風車……)はあえて捨象される。映像はループしながら窓いっぱいにひたすらに風車がまわっている(た)。四枚目におとずれる羽根、「のぞくとき」が場面を大きく動かすが、一首は過剰な一滴を与えられる手前で、表面張力によって、想像の曲面に、ひとみのなかにとどまっている。
この歌の視点が「炎のなか」にあることが驚きである。炎が眼球に映るのではない、眼球が炎にくべられながら、しかし驚くことに生き生きと、見ることの快に興じている。瞳孔に映りこむあかあかとした炎を、まぶたを大きくひらいて炎の側がのぞきこんでいる。いま挙げた〈ひとみ〉とか〈瞳孔〉といった近いニュアンスの単語ではなく「眼球」が選ばれているのも、レンズのしくみによって見る、のぞくという目のはたらき、想像上のごろっとした手触りを〈見る側〉からことさら強調する。眼球が丸いだとか、どんな大きさであるというのは眼球の持ち主ではなくその外にある別の視点なのだが、それでもやはり〈見ること〉の役割がよけいに強調される。

捕へられ高架の下につながるる自転車は死を待つ貌に似て
開かれたポストの中を下がりゐる牛の胃袋のごとき見てゐつ
せなせなあはせてかたみに死を語るどちらが影かきみとぼくでは

死のモチーフと同じくらい見ること、視線、目に関するモチーフがある。撤去された自転車や郵便ポストが開いた瞬間にのぞいている袋は「死を待つ」と書かれながらも、まだ死んではいない。それらは見られることによって日常に突如介入し、かえって命をもち、見る人の命をゆさぶる。命あるもの同士で互いにのぞきこみ、心臓を揺さぶりあっている。だから、生きているのか、風車は燃えていても……

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