老猫の貼紙 しろい水仙のみだれて咲いている冬の庭

丸山るい『奇遇』

 

過去のどこかでこういう風景を見たことがある、と思わせるくらいの解像度で「貼紙」と「庭」というふたつの事物が並べられている。ただふたつの事物が並べられているだけなのに深く精神が宥められるのはどうしてだろう。

貼紙は探し猫のものだと読んだ。いなくなる前の猫の写真と年齢、特徴など記されていただろう「老猫の貼紙」はこの歌のなかではもっともピントが合っているけれど、短い言葉のかたまりとなってすぐに行き止まる。それに比べると「しろい水仙のみだれて咲いている冬の庭」はぼんやりとしながらひとつながりの言葉としてもつれるように伸びていく。「老猫の」の「の」は連体修飾格として「貼紙」での行き止まりを導き、「しろい水仙の」の「の」も一瞬は連体修飾格での行き止まりの様相を見せつつ「みだれて咲いている」へ主格となって動きをつなげている。イメージとしては動く横棒グラフのようにいったんは少し伸びてそののち止まった「老猫の貼紙」をあとから来た「しろい水仙のみだれて咲いている冬の庭」がぐんぐん伸びて追い抜いていくような、ふたつの物事の動きを示すとそんな具合になる。

「老猫の貼紙」はそこまででもう動かない。動かなくなったものは存在の重心を削がれて、その重心は動いているものへ、「しろい水仙のみだれて咲いている冬の庭」へと移る。これは自然の摂理であって一首の構造自体もその摂理を忠実に再現している。ふたつの事物は並べられているけれど、重心は「貼紙」ではなく、もう「庭」のほうにある。それでもこの歌がさびしさに流れないのは、ふたつの事物の間をひとつのエネルギーが移っていくように見えるからなのだろう。「貼紙」にはもうエネルギーはないけれど、そのエネルギーは「庭」に受け継がれている、そういう受け渡しがなめらかに行われているように思われるのは定型の力であり、一首ではさびしさとごくしずかな祝祭感が手をつないでいる。

この歌を読んで、精神が宥められる気持ちになるのはおそらく言葉が光景を宥めながらつむがれているからで、「白水仙乱れ咲きの冬庭」では元気いっぱいすぎる。「しろい水仙のみだれて咲いている冬の庭」の「しろい」や「みだれて」や「ている」によって元気が鎮められていることで、時空が光景を撫でる感覚に肉迫してゆくのだと思う。

 

夕暮れの遊具ウインクしたままでこの世を褪せていく長い犬

 

『奇遇』は岡本真帆と丸山るいの共著である。前回書き忘れてしまったので、ここに記しておく。

 

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