道をゆきあてなきあゆみせるわれのひたひに動くおそあきの風

『宇宙舞踊』阿木津 英

道にはじめと終わりがあると直線的にとらえる向きもあれば、〈すべての道はつながっている〉という見方もまた正しい。歩道も車道もおなじ道であるには違いないけれど、その役割もサイズも大きく違っているし、歩くときと車に乗っているときは景色の見え方がかなり違って、そのために頭の使い方までもがちょっと変わってくるのではないか。
この「道」ははっきりと「ゆき」と宣言されているためにまずは直線的に場面を貫いている。導かれながらすぐさま行き先は「あてなき」に変更されてわずかな動揺が兆すけれどもこの転換に違和感はないし、何かとぶつかり足が止まってしまうような感覚はまるでない。「ゆきあてなきあゆみ」のブロックが一体となって、社や宮殿までを堂々と貫くような、しかしめぼしい建造物は陽炎の向こうにかき消えてしまう砂漠を続いていくような、それでいて「道」としか呼びようのない幅広の空間を立ち上げている。要するにここが街角だってもちろん全然かまわない。
風は外から吹いているけれどあからさまに頭蓋のなかへと侵入している。読んだ文字が目から頭に流れ込んでくるのと同じことであろう。あてもない歩行は不安でいっぱいであるはず、または不安だからそうしているはずなのに、頭がずっと働いているせいで正気を疑いようがない。体が道を歩きまわり、風もまた、頭のなかを動き回る。ここにもぞもぞと動いているのは「われ」と「風」の二つで、それぞれが独立していることによる微妙な完結しなさは風の通り道を作っていて、「動く」がとても良いのだろうと思う。この歌を通して、歩くことの本質はあてのなさにあることまでもが知らされている。

九夜ここのよ雨降りつづき朝のひかり變若をちかへりたり街の木叢に
眼に撫でて手のひらに撫づしその葉の一夜越えたる青の拡がり

〈變若かへる〉とはよみがえるとか若返るという意味。「九夜雨」とわずか三文字しか書いてないのに九日もたっている時間の凝縮、反復、あるいは「一夜越えたる青の拡がり」では見るからにしその葉の表面に別の時間軸が溶出している。「越えたる」において、経過した時間のログが記録されているような、何かを書きつけていくような感じ。たぶん、変化と不変とはごく近いところにある。

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