カウンターにシクラメン溢れ広き背を丸めてをぢちやん焼き餃子食ふ

小林真代『ターフ』

 

一首鑑賞のためにインターネットで調べた情報では、シクラメンは地中海沿岸に自生している植物だという。この歌を一読したときの、焼き餃子をはじめとする中華料理とシクラメンは合わない、という直感は地理的に見て正しかったと言える。しかしその取り合わせは妙に肌になじんでくる感じもあって、日本の至るところに点在している見慣れた一風景でもある気がする。最近「町中華」という言葉をよく聞くようになったが、置かれている植物が梅の花や水仙などでなくシクラメンというところにものすごく町中華の匂いがする。だれもが目にするだろうごく身近な日本の風景である。

シクラメンは種をまいて育てたり、球根を買って植えたりするような成長を楽しむ植物ではないと思う。花屋には花盛りの状態になったものしか並ばないし、花が終わったあと大切に育てて次の年にも花を楽しめるようなものではない。日本の気候では、次の年まで持ったとしてだいたいはちょろちょろと葉っぱが出てそれだけで終わってしまう。シクラメンは鉢植えであっても、扱いとしては切り花と同じようなその場かぎりの存在だろう。この一首はほぼシクラメンが支配していて、一首全体にそのシクラメン性がゆきわたっている。「をぢちやん」も「焼き餃子」もそれらを内包している中華料理屋そのものもシクラメンと同じようにその場かぎりの生をしょってここに集っている。「その場かぎりの生」と書いてしまうとなにかヒロイックな色がついてしまうのだが、そうではなくごくふつうにそれぞれがその場かぎりを生きている。そこに心を掴まれる。「カウンターにシクラメン溢れ」の初句二句の字余りにも振りや構えがなく、自然体からノーモーションで言葉が繰り出される感触があり、一首の色合いによく似合う。

 

試さるるやうに暮らしは平凡で初詣冷えた今川焼買ふ

 

露店の今川焼だろうか、お店の人は熱い鉄板と向き合ってきびきびと焼いているなかで、タイミングが悪く焼いてから時間が経ったものに当たってしまう。初詣なのでその年最初の買い物だったかもしれない。スタートダッシュでいきなりこけてしまったような恰好だが、ふつうの生活というのはそういうものを含んで成り立っている。冷えた今川焼も食べればまあまあおいしい。なにかを諦めながら、それでもさばさばとしてその場その場を生きていくのが生活なのだということを芯から感じさせてくれる歌が『ターフ』を光らせている。

 

白鳥が思ひ思ひに浮く川を思ひ思ひに鴨も浮くなり

 

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