『鏡の私小説』栗原 寛
窓の外はきっと明るいのだと思う。夜よりも昼間のほうが電車に乗っている間に受け取る情報量が格段に多く、木々や川や家並みを通して、世界における私というものをしきりに否応なく意識させられる(夜となればその裏返しで、世界は記憶の中からみるみる事後的に蘇ってくる。意識はまずはその再現にあくせくと追われていて世界のほうから声をかけてくるのはもっとも終わり近い降車間際にもなろうというところだ)。二度も念押しされるからには、この人はきっと本当はわかりたくないのだろう。ただし世界のほうもそこまで強硬ではない、正確無比に組まれた鉄橋の頑丈さが念押しという姿勢をわずかに後押ししているような感じで、この歌の滞空時間においてはとまどう猶予が与えられている。わかりたくなさと、とっくにわかっていることのぶよぶよした押し問答が世界と私との間に設けられた距離であって、その合間を往還しながら、何度も、何度も考えることに人間の大きな仕事がある。
最終の電車あやつりあらたなる星座をつくりだす運転士
幾光年走りつづけむ 鉄道は星と星とをつなぐやうにも
掲出歌に続き、だって電車はこんなにも大きくなるのだもの。という歌。
スクラップ・アンド・ビルドの名のもとに地下街がただの通路となりつ
ここはむかし海だったとか野だったという感覚の延長でここはすでにむかしの地下街になってしまっている。「スクラップ」か「ビルド」かでいえば「スクラップ」を念頭に説かれるこの表現に対する小さな反発がありそうだが、ただしその追憶の内部は少々覗き込んだくらいでは人間の栄光はもう見つけられない。のちに「ビルド」と言いなおそうともうその未来に安堵はないかわりに少々の郷愁が華やかなりし亡霊となって慰めにやってくるだけだ。「アンド」と安堵がうっすらと掛かる……世界にあるぶよぶよの、少しだけ未来の姿を、フラットでつるつるした天井と壁面に囲まれたこの元・地下街に私は見ている。
