もはや跳ぶほかなきゆゑに此の距離を跳べると思ふ おもふゆゑ、跳ぶ

『うづまき管だより』光森裕樹

悩ましいけれどどうしても摩天楼の際に追い詰められた映画のワンシーンを重ねたくなる。走り幅跳びの競技でも、日常で水たまりを踏み越える場面でもいずれも相応しく、遠くないと思えるのに、何十回だって目にしてきたスリルの光景がごく自然にここに降りてくる。摩天楼から飛び出すとき、人はどう思うかを知ってしまう。たった一度の偶然という直感が歌の具体を引き出してくる場合もあるように思うが、ここでは〈何十回だって目にした〉こと、ほとんど学習されきってしまったようなことの内面を、言葉の展開する空間に緻密に支えられつつも、韻律の糸がとっさに釣り上げてしまったことの動揺と興奮がある。釣り竿に震えながら垂れ下がるその興奮こそがこの歌に唯一秘められた偶然である。

跳ぶための動機が二か所にセットされている。もはや跳ぶほかない、とする思いが当初ある。それまで走るとか逃げるとかの選択肢もありえたけれど、「もはや」まで至ってしまったからには〈跳ぶほかない〉として第一の動機があらわれる。跳べるかどうかぎりぎりの距離に対してこの人は遮二無二跳べるだろうと判断し、その判断に基づいて〈跳ぶ〉と決めたことが第二の動機である。いっけん破れかぶれに見えても動機が二つあることで、迷いなしに跳んではいないという逡巡も生まれている。

迷いなしに跳んではいないというか、跳んではいけないのではないか。いっそ〈跳ぶほかない〉に至ったことすら、この人が差し迫りながら懸命に考えた論理、「おもふゆゑ」からさかのぼってやってきた発想でもある。一拍置いて仮名にひらいての「おもふゆゑ」が奇しくも注意深く踏むべき踏切板となって、駆けこんで跳ぶよりも、〈思うこと〉がほかの何よりも先立つ。もし、ある種の熱っぽい応援のように見えるとしても、この歌は跳ぶこと以上に迷いを肯定している。「ゆゑ」「ゆゑ」と二度にわたって足はつまずき、私の体を前に向かって動かしたのは〈思うこと〉である。

天の川そのかみしもを確かむるために浮かべつひとつ椰子の実
窓の外に映るランプがほんたうであるかもしれず確かめにゆく
携帯電話を君と交換して幾日 吾からの電話のみ吾は取る はい
サイフォンで淹れてください こぽこぽと鳴るのでせうか 鳴りますよ ふふ

韻律によって、深刻さがフィクションの手つきで救われている。または、フィクションによる深刻さでもあるのかもしれない。不安から確かめたくなるのが常であっても、天上を流れる椰子の実も、窓に反射するランプも幻である。「吾からの電話」や、ほとんど一人芝居のようなコーヒーの場面、みんな幻である(それにしても、携帯を交換しようなんてどうして思いつくのですか)。人と向かい合いながら自分どうしが対話しているこの感じがとても好きで、文学は絶望をどのくらい欲し愛しているのかとふだんよく思うけれども、そう悩むくらいには、世界は簡単にできてもいない。

※なお本書は電子書籍による発行。

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