「花しかねえ」と中学生我ら笑いいき冬の日差して遠き桃畠

齋藤芳生『湖水の南』

 

「花しかねえ」とはものすごい表現である。咲き盛る桃畠を見ての中学生時代のつぶやきを思い返しているわけだが、天国を超えたような見晴らしがこちらの目にも浮かんでくる。描写というのは通常、描写するものとされるものが向き合うスタンスとなることが必須、前提になってくる。この歌の珍しいところは、そうした対象(ここでは桃の花)との向き合いを経ることなく、「花しかねえ」という発話に、または発話している中学生にズームアップしたまま、桃畠を最大限に描写し得ている点ではないかと感じる。「花しかねえ」の対象となった桃畠はまったく描写されておらず、中学生の声の反射的作用としてのみ読者のまえに現れる。

下句は大人になった後、東日本大震災後の福島の桃畠である。冷静になって文理解釈をしてみれば季節は冬であり、桃畠は枝の交錯だけをのこして沈黙している。文字をゆっくりと追っていけばそういう読みになるのだけれど、「花しかねえ」の桃が咲き盛るイメージは拭いがたくまとわりついてくる。初読のときから長いことこの歌は桃の花がずっと咲き続けている歌だと勘違いしていた。が、あらためて文理解釈をして勘違いを表明したうえで、それでもこの歌には桃がずっと咲いているのだという勘違いをつづけたい。そのほうが一首の主体の感覚により近づくことができるような気がする。

大震災後の主体の目は沈黙した桃畠を感知しつつ、脳裡には「花しかねえ」の桃畠がより強く匂い目の前の現実を上書きする。イメージが過去現在未来の埒外に主体を連れ出し、一読者であるわたしもまた主体が連れ出されたその場所に勘違いを通して置かれることができる。そのときイメージは現実を凌駕した、と言ってしまってもいいのではないだろうか。過去現在未来の遠近をときとして狂わせることで、人は長い時間をなんとかまっすぐに歩いていくことができるのだということも併せて、ふかく考える時間を多く含んだ一首である。

 

かなしみのように糖度は増してゆく桃の畠に陽の傾ぐとき

 

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