そば 通る時鳩ぱっとちょっと飛ぶちょっとで良いと判断してる

田中有芽子『私は日本狼アレルギーかもしれないがもう分からない』

 

鳩である。せわしないような、ふてぶてしいような、ポーカーフェイスなような、そしてそれらのすべてが矛盾なく同居しているような鳥である。わたしの注意不足なだけかもしれないが、おしなべて鳩はせわしなさとふてぶてしさとポーカーフェイスを同居させているように見える。それは鳩それぞれの個性を覆い隠すほどに強烈な鳩の性のせいなのかもしれない。雀はもう少し焦りをこぼしたりするし、鴉にはせわしなさが欠けている。雀や鴉にはなによりもう少し一羽一羽の個性が垣間見えるように思うのだが、鳩の性格はなぜだか統一されているように感じてしまう。そういう鳩の核心をこの一首は突いている。

鳩の動きには助詞がない。仕草のひとつひとつに差し挟まれるやわらかな関節のニュアンスがなく、動きがどうにも骨っぽい。この歌にも助詞は最低限しかない。特に上句に限って言えば助詞がひとつもない。「鳩ぱっとちょっと飛ぶ」の「と」のたびに一瞬止まる感じがそのまま鳩の動きとリンクし、歌そのものが鳩をしている。

「ちょっとで良いと判断してる」も憎たらしいようでいて憎めない鳩の内面を思わせる。鳩の内面を詠われたとき、人と鳩は別物であってうまくやらないと鳩に踏み込みすぎた歌になってしまうはずだが、この一首にはその感じがない。「ちょっとで良いと判断してる」を思わず鵜呑みにしてしまう。これは明らかに初句のちからである。「傍通る時」は主体がみずからについて言及している箇所だけれど、あるべき助詞がここからもうすでにない。主体が登場するのは初句+2音だけなのに、その時点で人間も鳩化していると言っても過言ではないだろう。鳩の内面を記述してなお鳩に踏み込みすぎだと思わせないのは、登場した時点で主体がもう鳩だからなのである。認識の反転があざやかな次のような歌も印象的だ。

 

あのアゲハ小さい頃から何回もおんなじやつに会ってるのかも
どこへも行けないドアどこへも行けないドア開けて冷たいのを飲む
眼の仕組み水分多し海を見る人は水に水を映してる

 

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