ひややけくあまりに高くひかるゆゑ星見ゆる窓にそむきて眠る

『杉原一司歌集』

スコッチでは一度ばかりでなく二度、アイリッシュウイスキーというカテゴリは三度も蒸留をおこなって風味を高めるのだという。掲出歌から、そのように純度の高い抒情をいっさい受け取らずに済ませるのは難しい。本書の紹介には杉原が短い作家生活の終わりにかけて「無自覚なセンチメンタリズム」を退けたと書いてあり、実際そう読んだけれど一方ではすぐれた抒情質の持ち主であったろうし、それがための懊悩がここにあったことを読み取ったとしてもよいのではないか(殊に実作者の感想として)。作中にこの人は客観では現れないが、歌いっぱいに体を横たえている。冷ややかであるのは星に限らず、外界に広がる夜空のすべてである。冷たさ、高さ、光はいずれもほとんど完全なシンメトリーの対義語をもつ概念で、「あまりに」においてちょっとした主観と感傷がにじんでいる。先のシンメトリーによる統率は「そむきて」という動作の実践をもって完成する。体の前面のおもだった器官は内を向いて完全な眠りへと落ちてゆき、抗して翻した背中は皓々と星明りに照らされながら、半月のように、夜通しすっかりと一睡もできぬままでいる。

ところで、眠りの世界は空虚であるのだろうか。

ぴつたりとてのひらを伏せ白壁の冷たさをしきり集めゐるなり
硝子器の罅を愛すとあざやかに書けばいつしか秋となりゐる
鉛錘のつり下げられてうごかざる暗室内を飛翔する針
とめどなく撞球台をあふれでるなめくぢと窓に見える沙漠と

前の二首は「オレンヂ」(昭和22年1月・3月)、後のは「メトード」(昭和24年11月)掲載。「メトード」掲載の連作には「内部について」と題がついている。掌と白壁の間には熱の交換があり、硝子の罅には謎めいた愛が込められる。「いつしか」秋になるほど放心してしまったのは、「あざやか」と表現されてしてしまうほどの、書くことの恍惚と陶酔によってであろう。

暗室内を針が飛び交う状況は、映像として思い浮かべることは困難ではあるが、それを言い当てるに飛翔という単語を用いたことから、この暗室にほんの一瞬のきらめきが射している。

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