岡本幸緒『ちいさな襟』
砂時計の仕事はひっくり返されて三分なら三分、五分なら五分の間、砂を流しつづけることである。キッチンタイマーのように経過した時間が秒単位でわかるわけでもないし、時間が来たらそれを知らせる音が鳴るわけでもない。ただ、ひっくり返されて与えられた砂の量を下のくぼみに流す。だからそっぽを向いていれば時間を計るという人間側の目的は達成されず、時間が経過したことだけがそこに見いだされるのみとなる。
それにしてもしずかな一首である。「わたくし」と「砂」しかこの歌には出てこない。そしてこの二つはまじわることがない。砂時計の砂はガラス質のなかに閉じ込められているので物理的には触れることはできないし、砂は砂で流れるという仕事をし、わたくしはわたくしで何か別のことをしていて砂の仕事を目撃していない。そのとき砂時計は不可視な、また完全な時間となって流れ出し、流れ終わる。時間というのは忘れたころにその存在を思い出す類のものだと思う。さらさらと忘れられながら、あるタイミングでその存在に直面するそういうものである。この歌の砂時計もほとんど時間と同じような忘れられかたをし、思い出されかたをしているように見える。キッチンタイマーやデジタル時計のようにさまざまな機能を持たないことで、もっとも時間に近づくことができる時計が砂時計なのだと気づかされる。
砂時計を使うシチュエーションはだいたい料理なのかと想像する。もしかしたら何かが焦げてしまったりしたのかもしれない。が、その辺りを述べない淡泊な文体が、一首のなかに時間というものを固着させることなく流しているようにも感じられる。
台風の前にはぬるき風がふき花屋は花を片づけはじむ
エアコンにふたつのランプともりおり二時間たてばふたつとも消ゆ
縁側につくろいものをする母はガラスの瓶にボタンをためる
登場する事物の少ない、しずかな語り口であるからこそ、歌の奥に流れる得体の知れない時間の質量がこちらの肌に触れてくる。歌の内容とは別のところで、何者も時間のなかにあるのだということが小さな声でささやきつづけられているような作品群である。