村木道彦『天唇』
前回砂時計の歌だったので、時計の歌をもうひとつ。
時計店を異様な場所だと感じるのは、集まるべきでないものが集められているからだろう。時間は集めようのないものだけれど、それが時計店には時計という有形物を通して密集している。しかも時計ひとつひとつが好き勝手な時間を指し示していたりする。時計店では時間がスパークしており、こちらの頭もスパークしそうになる。というのはわたしの個人的な感覚で、村木作品にはこうした混乱が生じていない。無数の時間に飲み込まれることなく毅然として時計店、また時間に対峙している。店内にいるのか店外なのかどちらにも取ることができるが、「黄昏のひかりみちたり」のひかりの強さは店の正面ガラスの反射によって増幅しているような感じがある。店内であれば照明という別のひかりもありここまで力強く二句切れで言おうとするときに何か口ごもるときの音のゆるみがあるのではないかという気がする。一字空けのあいだに挟まれた「 時計店 」も俯瞰のかたちをしている。これを併せて一読者としては店外説を取りたい。店外から見た時計店は黄昏のひかりの反射を受けてかがやきに烟っているけれど、壁にかけられたたくさんの時計は見えている、という感じになるだろうか。
たとえば砂時計が時間を表すときの動きは流れ落ちる、であるのに対して掛け時計の動きは刻む、であって針は刻みつつ前進する。前回の岡本作品と同じ時計のモチーフであってもモチーフに含まれる動きが異なることで一首がもたらすイメージもまったく異なってくる。円周をめぐりつづけるだけだとしても、掛け時計の針の一歩一歩の前進がこの歌を統べているだろう。
黄昏時という終わりを示唆する時間帯や刻まれることの痛々しさは歌の表面に露出させながらそれらをもってしても消え去らない力強さがある。これを若さだと断定してしまうことには躊躇があるけれど、ただ刻まれてゆく時間におののくこととそれに毅然と対峙することはこの歌のなかで表裏の作用なのだと思う。崇高ささえ漂わせる「無数の時」に対峙するとき、一人の輪郭もまた対峙に値するだけのかがやきをもって立ち上がる。
夕、われは まどのガラスに鼻ふれておのがまなことまむかうばかり