生き残りしおきなも学徒もいまや死者からからと風がわれ吹き抜ける

丸地卓也『フイルム』

 

「銃後後」という戦争をテーマにした一連から引いた。この歌を読むと、人はみないつか死ぬ、という耳になじんだ言葉がきわめて直線的なものだったのだと思い返される。人はみないつか死ぬとして、その手前には数限りない分岐がある。ここでは戦地で死ぬ、生き残るのふたつが見えてくるけれど、生き残りの分岐の先に現れる限りない選択肢のどれを選んでもけっきょくは「死」にしかゆきつかない。右に行っても左に行っても直進しても、ゆっくり歩いても叫びながら走ってもすべて「死」にゆきつく。それが現実である。この歌の前には次の一首がある。

 

裏側にまわっても名前彫られいず戦没慰霊碑死は風になる

 

「千の風になって」という歌のように雄大な風を死のなかに見出さず、その風はからからとした卑近な乾いた風である。風を「有」のものとして扱うのではなく、あくまで「無」と等価のものとして捉えていて、歌の背後には現実的な視線が控えている。同じ一連に

 

万歳はたぶんするだろう戦地にもたぶんいくだろう長男だから

 

という歌もある。招集される場面を想像するとき、それは想像なのでいくらかは楽観的な見方をしてしまいそうなところに引き寄せられていかない。「長男だから」も傍から見ればどうにでもなる理由に思われるが、その人のなかにあるルールの確固としたごつごつ感の手ごたえが歌に残される。欲張らないし、ぶれることがない。

 

人生に迷ったようなカナブンをよけて向えり早朝の駅

 

こういう歌もなにげないけれど独特である。「人生に」とあるので、カナブンに自身を投影しているのかといえばそうではない気がする。カナブンはカナブンとしてそこに心寄せをしているのかといえばそういう感じもしない。「人生に迷ったようなカナブン」という言葉からは、気持ちの一端はカナブンに向きつつ、しかしあくまで虫に対して「人生」という人間のものさしを当ててゆくことの割り切った感覚と割り切ることに対するスムーズな判断が匂う。自身の立ち位置のぶれない感じはこうした歌にも根をおろしていて、何かごつごつした根源的な個の動かしがたいかたちを見ているような気持ちになるのである。

 

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