『右辺のマリア』田井安曇
この木は羨まれているのだろうか、そうではないのか。言葉は厄介であるか違うか。
木とこの人は対比されているようで、実のところ同じ極に立っている。言葉を持たない木は、自身を表現しようとするならば葉の色をいっせいに変えてゆくことくらいしかできない。人も、たくみな言葉を操っているように見えて、やっていることはやはり、全身の力をこめて葉をあざやかな別の色にすっかり変えてしまうことくらい、それしかできないという断念が思いがけずほとばしった歌のように思われる。一枚ずつをパレットで塗り分けるような器用なことは木にはできない。本当は葉のそれぞれが持っているはずの、色のむらやささやかなゆがみ、虫食いといった違いも、些細なものとして塗りつぶされている。「言葉」「黄葉」という二つの葉の重なる場所で、この人も木も「ひとり」。ただし強すぎる断念はゆいいつ歌にとってみれば嘉すべき光源のようなもので、この人はそうした不調和すらも、秋の西日のまぶしさに目を細めながら感じていることだろう。
たましいのくらがりに就き思い来つたましいはくらがりにしか過ぎざらむ
胸はりて歩めよと手紙してきたるひとつすぎゆきのこの秋あわれ
霜の土踏み帰るあわれ雑用と勤めを思うこころ赦して
次々に起る小事は串刺しにしてこのわれを動かしめずも
魂というのはたしかに肉の内側に匿われているイメージが濃くて、「くらがり」とあればさらに洞窟のような空虚を魂が抱え込んでいるイメージが付加される。肉と洞窟が二重の像を結ぶことはなくとも、言葉の上ではかろうじて可能となる。
それ以上のことを何も言わない歌である。世の中がまだ大きく動いていた時代がかつてあり、ときどき書いている生活の仕事のことは「雑用」「小事」とここに決めこまれている。いっぽうでは雑事を書いてこそという認識がすでに念頭になかったわけはなく、短歌のサイズや言葉の持ちうるボリューム、機能の限界、これに対する世界の大きさ、広さ、そうしたものが散乱した空間における「雑用」「小事」といえよう。つまりないがしろにされているのではないと私は思う。「串刺し」というのが妙にナンセンスで唇をゆがめてしまう。率直にいってこのような歌(それ以上のことを何も言わない歌)が先の空間で無数に書かれてきた(むろん田井に限らず)とも思うが、多ければ多いだけ、手ごたえをより強くしたいのならば読むほかなかろうという特異な気迫がある。そうしなければつかみえないものが絶対にあるという確信だけが骨組みのように残された空間である。