金田光世『遠浅の空』
夢の歌である。と、そう思うのは把握されないはずのものが把握され、把握されるはずのものが把握されていないような歌の脈絡のからまりによる。「少女たち」は「わたしたち」ではなく、「わたし」とは少し隔たったところにある存在だという捉え方であって「岸辺のひかり」へとすかさずつづいてゆくのも、近景というよりは遠景を思わせる言葉のつづき方である。そうであるのに、少女たちにビーツのようなこころを見ている。また、岸辺のひかりを撮影しているのを眺めつつ、「連写」ということが分かるところまで接近している。遠景のカットと近景のカットが継ぎ目なくなめらかに連動していて、これは夢の脈絡であるのだと思う。
「ビーツのやうなこころ」も不思議だ。ビーツもこころも単体では把握できるような気になるけれど、「やうな」で結ばれたとたんに握力が失われる。「ビーツのやうな真つ赤なこころ」なら握力は失われないが、この一首はそうは言っていない。あくまで「ビーツのやうなこころ」である。継ぎ目なくなめらかでいながら、そこには何かしらの陥穽が含まれている。一首を読んでいるあいだにその陥穽にはまるのに、気づかないうちに脱出できてしまっている。そういう感触がある。
ビーツの知識として個人的に持っているのは、赤い、ボルシチの材料、カブのような形、くらいなので恥ずかしいのだが、ボルシチもおそらく一度も食べたことはないし、あれはカブではなくてほうれん草の仲間なのだという。「やうな」でビーツからこころへ渡されるものは、赤い色や形のイメージであるとともに、カブの形と色味なのでカブの仲間だと思っていたらほうれん草、という思い込みや間違いのニュアンスもあるのではないか。ふたつに切ればみっしりと赤い、それでいてなんとなく間違いながら保持してゆくものとしての「こころ」である。
そういうものを抱えながら少女たちが岸辺のひかりを連写する。いちまいの写真は一瞬の記録だが、連写によってその瞬間は連続した流れを生む。連写によって川の流れであり、時間の流れであるものをかすかに手中にする。それが「かすかに」であるのは、手中にしたはずの流れにも連写ゆえの陥穽は含まれているからであって、それは「夢」であり「こころ」であるものと地続きの性質をきっと備えている。確かなものは何もない、ということが何重にも描かれているような一首である。
明るさは極まりながら蜂蜜のなかに季節は静止してゐる
