『恋衣』より 山川登美子
「AはB」「AとはB」「AならばB」といった構文を備え、認知の跳躍時間をつかのまの高揚に置き換えるタイプの歌にあたるだろうが、どことない屈折を感じる。〈歌の中のまぼろしは美しいので、それを恋と呼ぶので〉と書いてあるのに、なんだか全然そう言っているように見えないのがふしぎである。難しい歌ではないのに、文法という装置の素直な作用をできるだけ拒んでいるというか。
まず「恋」は「地」にはないことになっている。まるで現実の地上には恋も「まぼろし」もなく、「歌」のなかだけにまぼろしがあるかのような書きぶり。「地」と「歌」が比較されている前提も少しばかりあやしい。これには「恋衣事件」なるできごと(歌集の印象が学業にふさわしからぬとされた)に抗して書かれたという謂れも強く作用しているが、それだけでもない気がする。
またの世は魔神の右手の鞭うばひ美くしき恋みながら打たむ
くちなはの口や狐のまなざしや地のうへ二尺君は寵の子 ※ルビは原文ママ
おばしまの牡丹の花に額たれて春の真昼をうつつなき人
百合牡丹贄の花姫なほ足らずばひじりの恋よ野うばらも枕け
こうした忘我の歌がある。反復や対比といった韻律のテクニックが駆使されたこのような作品が立ち上げた世界はあまりに美しく、「歌にただ見るまぼろし」であろう。でも、鞭の振り下ろされる軌道や、蛇の口元、肉厚で瑞々しい百合や牡丹といった具体物が否応なく読むものを地上に引きずりおろしてくる。「牡丹の花」に差し出された額はまだ半透明だが、「春の真昼」「うつつなき」と何度も半透明のレイヤーを重ねた挙句にいよいよ現実の「人」が現れる。こうした作品の中で、天に上ろうとする魂と、地上にとどまろうとする生命が互いを引きあって、言葉の力学を生んでいる。それはもう、いくら言葉の上であっても「まぼろし」にはとてもとどまらないのではないか。
それではなんと呼べばよいかというと、このときは「恋」と呼ばれている。ああ、恋とはそういう気分のことを指すのだなと、かなり遠回りしながらたどり着かせるための迷宮がここにある。「地」「歌」「まぼろし」「恋」という要素はそれぞれに構文の順接をうらぎり、架空の対比を作り出し、その操作によって「恋」なる単語の意味の複雑性はようやく初めて示される。べつにこの際「恋」でなくともかまわなかったのかもしれないが、それよりも言葉の迷宮はここにあるのだと、近代の詩の条件を切に問いたかったのではないかと、『恋衣』を通して思うことである。
紅梅にあわ雪とくる朝のかどわが前髪のぬれにけるかな
