『白暁』富小路禎子
そろそろ落ち着いてきたけれども、冬場のドアノブに触れていきなり襲ってくる静電気。代わって花粉や黄砂が日によって多いとき、車のボンネットをうっすらと覆ってしまうほど積もって、手のひらでなぞるとその跡がついたことを思い出す。ただ触れただけ、何も変化をさせていないつもりでも、人は時間や空間と無関係ではいられない。黄砂は彼方の過去だろうか、静電気は前方の未来だろうか。「蕾」が未来を内包していることはなんとなく自明である。一輪というよりいくつもまとめて活けてあれば、それらは束になって網のようにみずからの内側に未来の時間を保とうとする。茎は青くみずみずしく、その束に触れたとき、この人はいとも「たやすく」未来に触れている。この〈たやすさ〉。平時であれば触ることのなんでもなさ、ほとんど平坦な無意識はそのじついくらでも時空をまさぐっている。「ふれき」とすぐさま場面転換して過去形に終着していることも見逃せない。
灯さざる夜半の鏡に月ながら写りて吾の身動きならぬ
一皿の烏賊食みつくし白濁の夜霧すぎたるごと忌日逝く
足首迄埋めて砂の風行けば人もけものも容危ふし
青き革椅子たまたまそこにありしことをおどろきとしてここの日だまり
「月」が室内で同時に鏡に映りこむのは少し無理があるけれども、むしろ「身動きならぬ」心境が先立つことで、不動の画角のなかにいきなり月が割り込んできたような、空間に罅を割り入れるような緊迫感をうんでいる。そのあいだ、身じろがぬこの人はもちろん月を見つめている、ゆっくりと月が夜空を駆け上る何時間ものあいだ。「烏賊」がかつてあり、今はもうない卓上に、烏賊を食べた事実、ぬるっとしたテクスチャが喉を通った状況が残っている。じつはこの日は忌日(母の)であるけれど。「一皿の烏賊」「白濁の夜霧」と「の」で連結された要素の視覚的な二重性がまずあって、「烏賊」が喉を通る印象、白い霧の中を通過する印象(ここにこの人はおらず、あくまで肌触りだけ)、忌日が「逝く」という表現の繰り返しも重ねられて、わずかな一首の中になんども生誕と死がリプレイされる。忌日というその日をもう一度世から去らしめるという着地が、構造の上からも何度も念入りになぞられて、全体を一本の筒とかトンネルのようにしている。読みながらこの場面を通過していったのは烏賊ではなく読者だという反転の答え合わせが生まれる。
砂浜には体の一部である足首が埋まって見えず、「青き革椅子」は突如風景に登場する。自然のなりゆきはときに静電気のような唐突をもたらし、まるでホラーなのに、いくらかあたたかみもあることが不思議だ。あまり書ききれなかったので、次回もう少し続けたい。
