谷川保子『おもてなしロボ』
くるしみにはダウナー系のものとアッパー系のものがある。ふかく塞ぎこむくるしさもあれば、われを忘れて叫びたくなるようなくるしさもある。この歌のくるしみはあきらかに後者のものである。
熟れた苦瓜は果皮をオレンジ色にしてみずからその身を割り裂く。割り裂かれた内部からはねばついた真っ赤な種子があらわになってすさまじい姿を見せる。スーパーに売られている苦瓜からは想像しがたいが、熟れた苦瓜はものすごい変身をする。一首単位では苦瓜を精神的なくるしみの喩としてまずは読むことになるのだが、連作の前後には出産にまつわる作品が並び、これは精神的かつ肉体的なくるしみなのだということが示唆されている。
授かりし躰にひかりを感じたりさといもの葉がわっふと揺れる
わが躰ちぎりつつ子を産み終えて蒼い満月こんなに静か
こうした歌には、自身のからだに兆す得も言われぬ未経験の感覚が、曲線のような自由さを損なわないかたちで残されている。体内にたしかなひかりを感じつつ、そのからだはいてもたってもいられずにちぎれてもゆく。もし絶望しかなければ掲出歌のような躍動感は出てこなかっただろう。同じ強度の絶望と希望がひとつのからだのなかにある。それがくるしみに躍動感を与える要因になったのだという気がする。みずからの内側から生命を生み出すことがどういうことなのか、わたしという一人の読者は分かり切ることはできないけれど、それでもこの歌の言葉によって目をみひらかされたのはたしかなことである。他者の身体の内実を理解できたとは言わないが、他者の身体が感じている振動のようなものは一首がもたらす振動のようなものとなって、それは受け取ることができるものなのではないかと思う。一首の意味内容やイメージは発する側と受け取る側で齟齬が生じる一方、振動の齟齬はそれほど大きなものにならないのではないか。もちろん振動の元になるものとして一首の言葉があり、言葉から表れる意味やイメージがあるのだけれど、そうだとしても振動は齟齬が少ない、という気になるのはなぜだろう。歌における振動について、もう少しじっくり考えてみたいと思わせてくれる歌である。
